鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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のがある。それは、モローが1850年代から1860年代前半に書いた、帝国図書館版画室(現フランス国立図書館版画室)での版画研究に関わる手書きの一次資料で、以下の三つが存在する。一つ目は、《ヘラクレスとオンファレ》の準備素描(Des. 3850、資料1)の余白に書かれた版画家名のリストであり、マチューによれば、この素描は1856-57年頃、すなわち、モローがイタリアに旅立つ直前に描かれている(注10)。二つ目は、『赤色のノート』(Arch. GM 500、資料2)と呼ばれるモローの手書きノートであり(注11)、モロー自身が「このノートは1860年にアレクサンドル・デトゥーシュから譲り受けた」とを記していることから、イタリア旅行の直後、1860年代前半の記録であることが分かる。三つ目は、『茶色の手帳』(Arch. GM 245)と呼ばれるもので、これは『赤色のノート』の書き写しであるため、ここでは主に《ヘラクレスとオンファレ》の素描と『赤色のノート』に着目する。資料2に示した『赤色のノート』の抜粋の冒頭に「帝国図書館─版画家」と書かれていることからも分かるように、これらの覚書は、帝国図書館版画室でモローが作品を閲覧しようと思っていた、そして実際に閲覧した版画家たちの名前のリストである。前述の《ヘラクレスとオンファレ》の素描の制作年代から、モローは1856-57年頃にこれらのリストを制作し、帝国図書館版画室に通ったことが推測される。資料1と2に示されているように、モローは作品を閲覧した版画家の名前の前にばつ印をつけたり、「実見した(vu)」と書き、時には「素晴らしい(superbe, excellent)」といった感想も書き込んでいる。作品名はほとんど記されていないため、実際にモローが見た版画の詳細までは知ることができないが、イタリア、フランス、ドイツ、オランダ、フランドルなど様々な国の版画家の名前が混合しているこのリストからは、モローがいかなる版画に傾倒していたかを知ることができる。これらの一次資料を概観して気づくことの第一点目は、イタリア・ルネサンスの版画家が優勢であることである。《ヘラクレスとオンファレ》の素描はマルカントニオ・ライモンディから、『赤色のノート』の版画に関わる頁はマンテーニャから始まっている。両リストには、ギージ、カラーリオ、ボナゾーネ、アゴスティーノ・ヴェネツィアーノらが含まれ、16世紀イタリア版画に対するモローの強い関心が顕著に表れている。モローはこれらの16世紀イタリアの版画家による版画を少なくとも1点ずつ所有していた。帝国図書館版画室は、モローが自宅で行うことのできた研究を補い、絵画におけるルーヴル美術館と同様の重要な役割を果たしていたといえる。第二点目は、モローの初期版画に対する関心である。例えば、資料2に示した『赤色のノート』には、ESの版画家、「木版画の発明者」としてのウーゴ・ダ・カルピ、― 16 ―

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