れによりハプスブルク家は、念願であった宗教的自立を果たした。以後の同家の躍進は、周知の通りである。ハプスブルク家は、大聖堂造営に際し、これを権威ある霊廟とするべく、多塔や二重礼拝堂など、ロマネスク期より観察される「皇帝大聖堂」の建築図像を積極的に採り入れてきた(注3)。大聖堂を完成させた皇帝フリードリヒ三世も、北塔など、象徴的な要素の造営に着手しており(注4)、したがって、伝統的な図像の重要性を理解していたであろうことは、疑うべくもない。ところが唯一、外陣の建築タイプに関しては、伝統的なバジリカ式や、あるいはドイツで支持を得ていたホール式ではなく、前例の無い、いわば、図像的価値の無い、段形ホールが選ばれたのである。段形ホールとは、各廊の天井高が等しいホール式聖堂に対し、身廊部分の天井のみを高くした建築タイプのことで、階段状の断面を特徴とする〔図2〕。作例は少なく、ハンケの論考(注5)を除いて、先行研究もほとんど無い。シュテファン大聖堂研究史においても、本大聖堂こそが、段形ホールの最初の作例であるにもかかわらず、その点が追究されることはなかった(注6)。しかし、伝統的な図像を積極的に利用していた、それまでの造営史を踏まえたならば、完成を目前にして、突如として新しい形式が導入された点は、重視されるべきである。すなわち段形ホールには、伝統よりも重要な価値があったと推察され、おそらくそれは、図像ではなく、審美的なものだったのではないか。したがって、この例外的な建築タイプが発案された経緯にこそ、大聖堂の空間的特質を解明するための手掛かりが期待される。2.造形分析─段形ホールとネット・ヴォールトシュテファン大聖堂の外陣では、内陣へ向かう強い方向性が観察される。これは、段形ホールの特徴である、バジリカ式のごとき天井の高い身廊に起因する空間作用である。ただし、段形ホールには身廊部に採光窓が無いため、バジリカ式聖堂のように、ステンドグラスから差し込む光に満たされることはなく、天井部は深い闇に沈む〔図2〕。こうして、明快な方向性と神秘的な暗闇が、独特の雰囲気を作り出すのである。しかし、シュテファン大聖堂の内陣は、外陣とは全く異なった性質を持つ。外陣ヴォールトは1450年前後に着手されたと考えられるが、内陣は、これより150年ほどさかのぼる1304年頃、当時の慣例に倣い、簡素な四分ヴォールトを頂くホール式にて建設された。こうした時代様式の差だけでなく、中でも際立つのが、天井高の差である。内陣は、外陣身廊より約6メートルも低い〔図2〕。したがって内陣と外陣の接続は、不器用なまでに断絶してしまっている。外陣の段形ホールが発案された理由を、審美― 261 ―
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