鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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1446年、棟梁に着任したハンス・プクスパウム(Hans Puchsbaum)であり、もうひとりは、その弟子で、師の没後、1455年に棟梁の座を引き継いだラウレンツ・シュペニング(Laurenz Spenning)である。史料に拠れば、プクスパウムの着任に際して、フリードリヒ三世は、外陣にヴォールトを架け、大聖堂を完成させるよう命じている(注12)。この時点ですでに、プクスパウムは、外陣全体の構想を決定していたはずである。しかし彼は、段形ホールの建設直後に没したため、ネット・ヴォールトを完成させたのは、シュペニングであったと推察されている(注13)。したがって問われるべきは、棟梁の交代が空間造形に及ぼした影響であり、端的にいえば、プクスパウムの原案をシュペニングが修正した可能性である。プクスパウムの作品は、シュタイアーにあるエギディウス聖堂のネット・ヴォールトに代表されるように、いずれも、直線を強調した力強い造形を特徴とする〔図8〕。これは、段差によって空間を区切り、明快な方向性を示す段形ホールの性格に合致するものである。おそらくプクスパウムは、シュテファン大聖堂において、段形ホールと、平行線を交差させたネット・ヴォールトにより、力強い方向性がもたらす明瞭な空間効果を狙っていた。こうして生み出される、鑑賞者を圧倒する空間こそが、皇帝の大聖堂に期待された効果だったのであろう。段形ホールに観察される、明快さを好む傾向は、精神性の表現を重視するゴシックの特質とは、相克する性格に思われる。時代は、転換期を迎えていた。皇帝フリードリヒ三世の宮廷では、後に教皇となるイタリアの人文主義者ピウス二世や(注14)、ネーデルラントから招かれた芸術家らが活躍しており、彼らを通じて、新しい時代の思想や造形がウィーンへ流入し、ゴシックからルネサンスへと移り変わろうとしていた。プクスパウムが皇帝のために段形ホールを発案した背景には、理性を慮る新しい時代の建築理念が垣間見られよう。しかしドイツ語圏における発展は、決して一方向への直線的なものではなく、ゴシックの要素とルネサンスの要素がせめぎあいながら、移行様式とでもいうべき、独特の造形が生み出されていた(注15)。師プクスパウムの傾向を、新しい時代の影響と見るならば、弟子シュペニングの傾向は、いまだ根強く残るドイツ・ゴシックの精神と解釈できるのではないか。あるいは、従来は建築構造という条件の下に抑圧されていた、ドイツ・ゴシックの表現欲求が、新しい時代に入り、ようやく発現したともいえる。新しい時代における、リブ形態の発展経緯の一端を伝えるのが、図面である。ウィーンには、ゴシック末期の図面が、およそ440図伝えられているが(注16)、中でも興― 264 ―

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