鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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味深いのが、シュペニングに帰属される、シュテファン大聖堂の北塔扉口が描写された《鷲門図》である〔図10〕(注17)。本作のトレーサリーには、菱形や三角形、円形、魚の浮き袋形など、多彩な形態が詰め込まれ、こうして形成されるトレーサリーが、軸線や頂点の高さを違えつつ、ひとつのアーチの中で、階段状に重ねられている。その結果、画面からは、ヴェールを層状に重ねたかのような効果が感じられる。しかし、実際の鷲門は、線的な性格が勝り、図面にあった精妙なニュアンスが、十分には発揮されていない〔図11〕。換言すれば、《鷲門図》は、もはや実行可能性を度外視して、絵画としての審美的価値を追求しているのである(注18)。実際、15世紀後半になると、それまで下図としての役割に従事してきた図面は、絵画としての価値を高める傾向にあった(注19)。これに伴い、建築装飾やネット・ヴォールトも、構造要素としての本来の責務から解放されたかのように、自由に、多彩な形態を発展させた。いわば、絵画的なファンタジーが、図面を介して建築空間へ移入されることで、ヴォールトは、新しい表現力を獲得したのである〔図9〕(注20)。シュテファン大聖堂の外陣身廊ヴォールトにおいて、菱形と八角形が交互に登場し、直線と曲線の緩急がダイナミズムをもたらす造形は、精神性の表現を追求したゴシック末期のネット・ヴォールトのひとつの到達点であり、したがって、シュペニングが構想したものと結論付けられる〔図1〕。側廊にて身廊のモティーフを半分繰り返すという、型破りなアイディアも、シュペニングの自由な発想に基づくものであろう。しかしそれは、身廊と側廊を区切るというプクスパウムの構想自体を否定するものではなく、むしろシュペニングにとっても、段形ホールによって生まれた、身廊と側廊の高低差は、自身の表現を発揮できる舞台であった。すなわち壁面の均質性を利用し、そこから放射されるリブが、網目を複雑化させ、ついには上段の身廊ヴォールトへと跳躍するプロセスを通じ、鑑賞者の注意を、主廊たる身廊へと誘導しているのである〔図4〕。こうして鑑賞者の視線は、側廊から身廊へ、そして内陣へと導かれる〔図1〕。ところが、内陣との間には段差が設けられており、鑑賞者の視線は、突如として止まらざるをえない。段差を強調するかのように横断するのは、菱形ではなく、八角形である〔図3−D〕。方向性の曖昧な八角形モティーフを並べることで、視線を堰き止めるというよりは、内陣前で浮遊させるかのような効果を狙ったのは、おそらくシュペニングであろう。しかし彼も、外陣と内陣を分断させるという、師の構想に同意を示したことに変わりなく、内陣への視線は、ここで完全に止められてしまうのである。― 265 ―

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