1965年頃銅版画を始めた堀井は、1967年に日本版画協会展で早くもグランプリを受賞し版画界にデビューした。その後銅版画の作風は変化していき、1975年の《虚構の部屋》シリーズ〔図9〕辺りで一応の確立をみたといえる。確立された作風の一要素として、ここで問題とするのは、晩年の数年間を除き堀井の銅版画に一貫して登場し続けた「人形のような人物像」である。筆者は、先述のシュルレアリスムの影響は、この人物像に最も強く表れているのではないかと考えた。⑵銅版画開始のきっかけ 〜ゴーキー、シュルレアリスムの影響〜堀井は1960年代後半になると、次第に油彩画ではなく銅版画を制作の中心としていった。その理由として、周囲の流行と同じ「アブストラクト的な」油彩画への反省や疑問があったと語っている(注4)。銅版画を始めたきっかけとして、こうした堀井の内での行き詰まりを内因とするならば、外因といえるのが、アーシル・ゴーキー(1904−1948)の作品との出会いだろう。ゴーキーはシュルレアリスムに基づく有機的な形態の描写に始まり、後にいわゆるアメリカ抽象表現主義に位置づけられる作品を制作したことで知られる。堀井がゴーキーの作品を実見したのは、1963年の「アーシル・ゴーキー素描展」だと思われる(注5)。そこにはゴーキーの1940年代を中心とする素描が展示されていた〔図7〕。堀井はゴーキーの線描に感銘を受け、以降自らの作品に取り入れ、線描に主眼を置いた銅版画を1970年頃まで制作している〔図8〕。堀井は、自分が影響を受けた作家について語る1975年の記事で、芸大に入学する以前は印象派に熱中していたが、ピーテル・ブリューゲルの《聖アントニウスの誘惑》に衝撃を受け、やがて「シュールの洗礼を受けた」と述べている(注6)。ブリューゲルとの出会いは「今から23年前」としているので、堀井の記憶通りであれば1952年、芸大に入学する4年前である。その後シュルレアリスムを知った時期は芸大時代前後と考えるのが妥当であろう(ちなみに、1960年には東京国立近代美術館でも「超現実絵画の展開展」が開かれている)。芸大の大学院を中退したのが1961年であり、先述したように1965年頃を境に堀井の油彩画は変化し、銅版画が始まった。その変化の要因が、シュルレアリスムとの出会いや1963年のゴーキー展だったのであり、堀井の創作の転換には同時代の日本の海外美術紹介の影響が色濃いといえるのである。⑶銅版画に登場する人物像 〜ベルメール、ヴンダーリッヒの影響〜球体関節人形やマネキンを思わせる、体のパーツが分割されたり、手足の尖端が極端に細い形に曲線でデフォルメされたりした人間像が、初めて堀井の銅版画に登場するのは、1974年の《閉ざされた部屋》シリーズである。その後1985年頃まで、そうし― 274 ―
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