ヴンダーリッヒが日本に紹介され始めた頃から、堀井はその版画を実際に見ていたと思われる。1968年に渋谷栄一、野田哲也とともに出品した「版画3人展」(7月8日〜7月20日・養清堂画廊)の展評が7月13日㈯の朝日新聞夕刊に掲載されたが、同じ「二つの版画展を見る」という記事内に、南天子画廊で開催中のヴンダーリッヒの日本初個展についての評がある。堀井は、自らのグループ展の展評の隣の記事を必ず読んだだろうし、「戦後ドイツ画壇の具象派の異色」「きわめてシュール味の強い、現代人の深層心理を形象化したもの」などと紹介されているヴンダーリッヒの版画に、興味を持たなかった、あるいは展覧会場へ足を運ばなかったとは考えにくい。会場では《パウルは黙る》(1967年)〔図13〕などが出品されていたが、このように不気味ながらユーモアを含んだ人間の顔の表現は、いくつもの顔面が塊となって登場する堀井の《透視窓》シリーズ(1971年)〔図14〕が生まれた原因の一つと考えることもできる。なお、翌年の1968年の第6回東京国際版画ビエンナーレ(11月1日〜11月30日、東京国立近代美術館)にもヴンダーリッヒは《家に独りで》(1967年)〔図15〕などを出品しており、同展に出品していた堀井も作品を目にしていたはずである。こうしたヴンダーリッヒの具象的で、頽廃的かつ洗練された人間像の表現は、ゴーキー風の線描と明快な色面で抽象表現を探っていた当時の堀井に、少なからず衝撃を与えたのではないだろうか。1969年頃からは《オペラ歌手 No.1》(1970年)〔図16〕など抽象的な人物表現が登場し、次第に《仮面の人 No.1》(1971年)〔図17〕のように具象的な人体が描かれるようになる。堀井がヴンダーリッヒを意識していた証拠としては、堀井の蔵書の中にヴンダーリッヒ版画のレゾネや、ヴンダーリッヒに影響を受けた画家ブルーノ・ブルーニ(1935−)の作品集があったことも挙げられる。では、ベルメールやヴンダーリッヒの何が、堀井の精神に訴えかけたのだろうか。1968年に坂崎乙郎は、科学の進歩により人間が疎外されている状況と、その中で人間の肉体や魂を探求するベルメールやヴンダーリッヒに価値を見出していた(注8)。また1970年に村木明も、ベルメールとヴンダーリッヒを、作風は違えど人体をひとつのオブジェと捉え解剖学的に解体して表現する画家として解釈している(注9)。堀井がこれらの論考を読んでいたかどうか定かではないが、この頃から堀井の作品に、人形のように身体のパーツが分かれた人間像が現れてくるのは確かであり、それらの人間像が、高度経済成長期の日本の中で疎外され無機物化された人間のイメージだとすれば、そうした人間と現代社会の関係に対する問題意識が堀井の中で醸成されてくるのと、ベルメールやヴンダーリッヒの作品に出会ったのが機を一にして、彼らの作― 276 ―
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