鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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品から影響を受けたとしても不思議ではない。堀井版画の核ともいえる人形のような人物像は、ベルメールやヴンダーリッヒら戦後日本で注目されたシュルレアリスム作家の影響なくしては考えられず、堀井は自らの言葉で影響を語っていないが、そこには明らかなイメージの流入・受容・展開があったといえる。2.水彩画の契機としての水郷と日本画、中国体験堀井は1970年代後半に銅版画における作風を確立し、1994年に没するまで銅版画の制作を続けた。銅版画の作風は1980年代後半に大きく変化し、同時期に、銅版画とは作風が著しく異なる水彩画が始められ、次第に水彩画が制作の中心となった。銅版画の作風の変化、そして水彩画の表現の契機となっていたものは何だったのか。⑴絵画への回帰願望と水彩画堀井は1980年代に入ると、再び絵画を制作したいという意志を見せた。1982年には、かつて油彩画を離れた理由を体質的に油絵具になじまなかったと振り返り、今後は乾いたフレスコ画のようなものが描いてみたいと述べている(注10)。7年後の1989年には、「何か絵の具の肌の美しさだとか、描いたり消したりしながら何かあるものがそこで結果として成立していくような、古いかもわからないですけれど、そういう油絵が描きたい」(注11)と語っている。そこには、堀井が画家として意識していたヴォルス(1913−1951)やアントニ・タピエス(1923−2012)らアンフォルメルの作家の、画面のマチエールを重視した仕事への興味や、絵画への意欲の再燃が感じられる。版を作り転写するという間接的なプロセスによる版画から、筆で直接描く絵画への回帰。その絵画への欲求は、実際には水彩画へと結実した。堀井の水彩画は、水彩絵具以外にパステルやペン、絵具を盛り上げるメディウム、きらきらとした質感を与える雲母、模様のある包装紙などを使ったコラージュなど多技法で制作されており、本人が求めたマチエールの美しさが実現されている。ただし、堀井の水彩画はマチエールへのこだわりだけで成されたものではなく、描かれたテーマとの関係もまた重要である。⑵原点としての水郷の記憶と日本画1980年代半ば頃から、堀井の銅版画からは先に検証した人形のような人体像は姿を消し、代わりに柔らかみを帯びた女性像が登場する。静かな微笑をたたえた横顔で描かれる彼女たちの周囲には、鳥や花などが配されることが多いが、1993年の《記憶の― 277 ―

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