鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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そとで(91〜93)》〔図18〕の背景には、水郷で使用される舟が描かれている。《記憶のそとで》と題された作品は1989年にも4葉制作されている。「記憶」という言葉は、堀井が現代社会を追うのではなく自らの過去を回想し始めた心理の表れのように感じられる。同年の銅版画にも《白の追想》と題された作品があり、同じ頃の水彩画にも《追憶》(1988年)〔図19〕、《遠い記憶》(1988年)といった「記憶」にまつわるタイトルの作品がある。このように、堀井晩年の銅版画や水彩画のテーマとして、幼少期あるいは人生上の無意識の記憶や原風景への追慕があるらしいことが推測される。筆者が担当した「水から生まれる絵─堀井英男の版画と水彩─」展では、堀井の作家と作品における水とのかかわりを展覧会のテーマとした。ここではとくに、堀井が潮来という水郷の里に生まれ育ち、その風物に非常な愛着を抱いていたこと、青春期に小川芋銭(1868−1938)の絵と印象的な出会いをしていることを指摘したい。堀井は「水と語らい、よろこび、かなしがったりできるのは自分ひとりだと得意になっていた」が、高校時代に芋銭の画集と出会い、「芋銭の描く水は、単なる自然の再現ではない。水の精というか、水そのものの本質を描いている。私以外に私と同じような、いやそれ以上に水を知りつくし、水を友として、おおらかに水郷をうたいあげている人がいることにショックを受けた」(注12)と語っている。小川芋銭は、茨城県牛久沼のほとりに住み水墨と淡彩を主とする作品を多く残した日本画家である。霞ヶ浦周辺や潮来などの水郷風景を描いた絵〔図20〕も多い。堀井は芋銭の文人画的な水の表現に興味をもっていたし、自分でも水墨画的な趣の素描や水彩画、銅版画〔図21〕を制作した。堀井の原点には、水郷の記憶と水にまつわる日本画があり、テーマ・技法ともに晩年水彩画へ集中していく素地があったといえる。⑶水彩画に集中していく契機としての中国体験堀井の水彩画では、正面から見た人の“顔”、あるいは顔が溶け出して“風景”のように見えるイメージが繰り返し描かれた〔図22、23〕。無機物化した人体が描かれた銅版画ではテーマはいわば「人間と現代社会」であったのに対し、顔と風景が一体化したかのような水彩画では「人間と自然」の関係が追究されたといえる。堀井が水彩画へ一層集中していった契機として、1990年、1991年の二度の中国旅行が挙げられる。とくに蘇州では、水路が縦横に走る街の風景に自らの故郷の失われた原風景を重ね、制作のインスピレーションを得た。また安徽省の峻厳な岩山・黄山を訪れ描いたが、正面に立ちはだかる存在としての山は、堀井が水彩で試み続けた人の顔のイメージと重なるものがある〔図24〕。死去する1994年には、中国旅行を振り返― 278 ―

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