鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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研 究 者:早稲田大学 非常勤講師  陸 一、はじめに中国近代美術研究において、今日では洋画・伝統絵画など諸分野のように少しずつ研究が進んでいるものの、版画の分野のみ遅れを取っている。確かにこれまで魯迅と中国の新興版画についての記述は散見するが、断片的で整理されていないのが現状である。もっとも、日本で早くも魯迅における近代中国の木刻運動を中心に紹介された『魯迅と木刻』という本は1988年に刊行され(注1)、魯迅と1930年代の新興版画運動研究においては先駆的な意味を持つと認識しなければならないが、残念ながら、日本との関係についてもまだ不明点が多い。故にこうした記述は本格的な研究とは言い難い。そもそも、資料の扱いも丁寧に記さなければいけない。その後大きく進捗した動きが見られなかった。近年唯一出版された『中国抗日戦争時期 新興版画史の研究』においては、中国新興版画運動の背景についてふれてはあるが、やはり全体像として把握できない点が多かった(注2)。本稿は1930年代魯迅の新興版画運動から日中戦争期まで版画家の活動の実相を代表的な美術家を数名取り上げてその生涯と作品を比較しながら、作品の転変を解き明かそうとする試みである。二、中国新興版画の発生背景中国新興版画運動(中国では「木刻」ともいう)は文学者の魯迅(1881−1936)が生みの親とされている。魯迅は「唐から明にかけて中国の木刻図画には輝かしい歴史があった。だが今の新しい木刻はそれと関係がない。新しい木刻は、欧州の創作木刻に影響を受けた」と述べている(魯迅『木刻紀程』、1934年)。新しい木刻(新興版画)とは日本で言う「創作版画」であり、これは作家自らが絵を描き、彫り、刷る木版画のことで、伝統版画の画稿・版刻・印刷などが分業制作だったのと大きく異なっている。しかし、その後「一八芸社」の青年たちの一部は当局から左翼学生として追放され、彼らは上海に出て活動を行った。上海では彼らはのちの1931年に「一八芸社習作1929年、杭州の国立芸術院(のち杭州芸術専科学校に改名)の学生が新しい版画や油絵の制作を目的として「一八芸社」という芸術団体を発足させた。「一八」は民国18年(1929)にちなんだことである。― 283 ―偉 榮 近代中国における版画運動の発生とその転変

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