展覧会」を開いた。魯迅はこの展覧会のために「一八芸社展覧会小序」を寄せ、展示された作品は幼稚的と評しながらも、「幼稚こそ希望がある」と述べ、青年画家たちに激励した。魯迅は新興版画運動の先駆者である。魯迅は、外国版画などを集めた「芸苑朝華」シリーズ(五集、1929−1930)を刊行して木版画の普及に努めていたが、以後続いて、『引玉集』(ソ連の版画選集、1934)などを出版したり、良友図書公司出版の『蘇聯版画集』(1936)を編集、ドイツの女性版画家ケーテ・コルヴッツ(1867−1945)の版画集を自費出版(1936)するなど、先進的な外国美術の紹介に力を尽した。並行して何度も外国版画の原作展を開催し、青年美術家を啓発した。8月17日から22日までの6日間の会期で行われた「木刻講習会」は、20数名の若者が受講した。彼らが中国近代において新興版画の第一世代にあたる〔図1〕。三、新興版画と日本との関係文学の他に装丁などの美術分野でも日本と深く関係したように、版画においても魯迅は日本版画の紹介に尽力した。魯迅は、早くも外国の版画に注目した。1929年1月、魯迅は『近代木刻選集㈠』を朝花社から「芸苑朝花」シリーズの第1集として発行し、そのなかで魯迅は「木刻の帰国は、思うに決して他の2つのようにもとの師匠に苦しみを与えたりはしない」(注3)といい、イギリス・フランスなどの版画を12点紹介している。魯迅はさらに日本で刊行された美術書を上海の内山書店を通して購入し、中国の青年版画家に熱心に紹介した。さらに1929年3月に刊行した『近代木刻選集㈡』では、魯迅は日本の永瀬義郎の「沈鐘」を紹介している。永瀬義郎は茨城県に生まれ、大正初期の時代から昭和にかけて版画や油絵を通して旺盛なる創作活動を続けた画家である(注4)。著書「版画を作る人へ」はその後の版画家たちへ影響を与えた。この『近代木刻選集㈡』の「付記」のなかで、魯迅はこう述べている。「永瀬義郎は、かつて日本の東京美術学校で彫塑を学んだが、のちに版画に力を注1931年8月、魯迅は上海の内山書店主・内山完造(1885−1959)の弟、成城学園小学部の美術教員をつとめる内山嘉吉(1900−1984)を講師に招いて「木刻講習会」を一週間ほど開催し、自ら通訳を担当した。口コミで集められた参加者は魯迅によると20数人いたが、おもに「一八芸社」の青年たちであった。― 284 ―
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