ぎ、『版画を学ぶ人へ』一巻を著している。「沈鐘」はそのなかの挿絵の一つで。「木口彫」の作例として。有名な彫刻家、菊地武嗣が復刻したものである。今また複製したが、それでもまだ黒白の配列の巧みなところを伺うことができよう」(注5)魯迅はまた、蕗谷虹児の詩画集『睡蓮の夢』(1924)『悲しき微笑』(1924)からは、1929年1月に『蕗谷虹児画選』を編集・発行した。魯迅は『蕗谷虹児画選』のなかで「…彼の画譜『睡蓮の夢』から6図、『悲しき微笑』から1図を選んだが、ほぼいずれも彼の特色をよくあらわした作品である」と述べている(注6)。魯迅が1930年に刊行した『新俄画選』〔図2〕は、昇曙夢『新ロシア美術大観』(1925年、〔図3〕)に参照した点が多く、特にイギリスやソ連などヨーロッパ版画の紹介にあたって、魯迅はこの書籍から流用した。魯迅は同書のなかで、「本文中の説明と五幅の画は、昇曙夢の『新ロシア美術大観』から抜粋したものであり、その八幅はR.Fueloep-Millerの“The Mind and Face of Bolshevism”所蔵のものを複製したことを、あわせてここに明らかにしておく」(注7)、と述べている。昇曙夢はロシア文学者で知られており、文業、訳業では数多くの著書を残している(注8)。この『新ロシア美術大観』ではそれぞれ画集㈠の「絵画」「図案」「彫塑」、画集㈡の「版画及び装画」、画集㈢の「工芸美術及び舞台美術」によって構成され、「版画及び装画」部分では70点余り掲載されている。中国の新興版画における日本との関係について、早期の魯迅のみならず、後の1940年代おいても、画家傅抱石(1904−1965)による『木刻的技法』がもっとも多くの日本作家を紹介された。民国29年(1940)、日中戦争の最中に『木刻的技法』が商務印書館から刊行され、そのなかには永瀬義郎、平塚運一など多くの日本版画家作品が多数のカラーページで紹介され〔図4〕、この時期の出版物にしては驚くべき存在であろう。傅抱石は、日本に留学した経験の持ち主で(注9)、美術史家の金原省吾(1888−1958)から東洋画論を学んだ(注10)。また並行して日本画や彫刻も学んだという。1935年、傅抱石は銀座・松坂屋で書画篆刻の個展を開き好評を博したが、間もなく「母危篤」の報を受けて帰国する。帰国後は、国立中央大学芸術系教授を務めた。日本で郭沫若の知遇を得ていたため、その縁で抗日戦争中、第三庁で彼の秘書となった(注11)。傅抱石の『木刻的技法』には、巻末に以下の日本の版画著書を9冊も参考にしていると記されている。⑴永瀬義郎『版画ヲ作ル人へ』⑵小泉癸已男『木版画ノ彫リ方ト刷リ方』― 285 ―
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