鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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⑶平塚運一『版画ノ技法』⑷戸張孤雁『版画科(木版)』⑸旭正秀『版画ノ手ホドキ』⑹松田義之『美術教育ト版画指導』⑺旭正秀『版画実習読本』⑻平塚運一『版画』⑼平塚運一『新ラレイ創作版画ノ作リ方』また、平塚運一「滑雪」「松江郊外」、永瀬義郎「花」「梳髪之女」、松田義之「魚」「雪恋」など多数の作品を掲載している。抗日戦争中にもかかわらず、敵対国日本の作品を大量に用いることは、物資の補給が困難なため、版画(木刻)が中心的な役割を果たし、その需要が大きかっただろう。といってもこの商務印書館から発行された『木刻的技法』には、平塚運一「滑雪」「松江郊外」、永瀬義郎「花」「梳髪之女」などの作品はフルカラーで印刷された。なお、傅抱石の『木刻的技法』について、近年瀧本弘之による「傅抱石と新興版画の周辺」が発表されている(注12)。やはり、どの部分を日本からの流用かを全体として把握したいため、表にしてあるが、紙面の関係で省くことにした。日中戦争時期においては、いわゆる中国「抗日美術」の主流は抗日宣伝が中心で「木刻」(木版画)と「漫画」が活躍した。そのためか、交戦国で「敵国」であるはずの日本にもかかわらず多くの作品が傅抱石のこの『木刻的技法』に掲載され、戦時中物資が乏しく画材すら供給が困難なのに、カラーの図版で印刷されたこの本は、おそらく美術界に大きく期待されただろう。四、版画運動の展開と作家たちの転変「木刻講習会」の後、版画運動が各地に展開した。「一八芸社」(上海)をはじめ、「MK木刻研究会」、杭州では「木鈴木刻社」が設立された。しかし、彼らは一様に共産党シンパとみなされて、まもなく当局の弾圧を受け消滅・解散させられた。北方では、平津木刻研究会が活動した。「木刻講習会」以降、魯迅の支持を得ていた江豊(1901−1982)・李樺(1907−1994)・力群(1912−2012)らは各地で展覧会を開き版画集を刊行した。東京の川端画学校で洋画を学んだ李樺は、満洲事変に際して帰国し、広東で教鞭を執った。1934年、広州市立美術学校の教え子らと「現代版画会」を結成し『現代版画』を刊行した。1936年には本格的な版画誌『木刻界』が創刊された。青年版画家たちは自分たちの作― 286 ―

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