品を世間に発表し、社会批判や列強侵略下の民族危機を民衆に訴えた。1935年、1936年には全国規模の木刻展が各地を巡回するようになった。新興版画の代表的画家には、陳鉄耕、江豊、李樺、力群、古元などが頭角を現した。彼らによって、魯迅が期待した中国の版画の転変は確実に発生した。陳鉄耕(1908−1969)は広東の出身で、「一八芸社」を組織した一人で「木刻講習会」の受講生の一人でもある。のち木刻運動に従事した。陳鉄耕は「木刻講習会」受講当時にすでに『文芸新聞』を発表していたが、2年後「母与子」を作った。外に稼ぎに出た父の、その帰りを無言に待っている親子。民国時代において、中国社会の底辺における民衆の苦しい日常を描いたもので、まさに初期の新興版画の代表作である。陳鉄耕は1938年に延安に行き、抗日戦争の宣伝に携わる。新中国以降、広州美術学院版画系主任をつとめた(注13)。江豊(1910−1982)は上海の人で、中国左翼美術家連盟(注14)、一八芸社などに参加した。江豊は早くから美術運動に携わり、魯迅の教えを受けて1931年の「木刻講習会」の受講生である。その後、延安に行き、『前線画報』などを編集した。新中国後、中国版画家協会主席・美術家協会主席などに選ばれた(注15)。李樺(1907−1994)は、広東省番禺の没落した商家に生まれる。幼時から神童といわれた。苦学して広州市立美術学校を卒業した。1930年に日本に留学し、東京の川端画学校で学んだが、翌年の満州事変勃発を受けて帰国する。母校で教鞭をとり西洋画を教えるが、1934年に魯迅の影響下に学生らと共に「現代版画会」を組織、版画運動を実践、指導する。同会の発行した『現代版画』や『木刻界』は新興版画史上にのこる歴史的な版画雑誌である。作家としての創作は60年以上にわたって続けられ、数多くの傑作がある。「怒吼吧中国」(吼えろ中国、1935年)は抗日戦争時期の代表作であり、内戦時期は組画の「怒潮」(〔図5〕、1947年)などが挙げられる。作品は、鋭い線と明暗のはっきりした、力強い動きのある構図が特色で、「白黒」を正統とする中国木刻の王道を行く。「怒潮」は魯迅に紹介されたケーテ・コルヴッツ(1867−1945)の作品「農民的反抗」(農民戦争、〔図6〕)などにも通じる(注16)。力群(1912−2012)は、山西省霊石の地主の家に生まれ、杭州の国立西湖芸術院で学んだ。1933年、同級生らと魯迅の影響下に「木鈴木刻会」を創設し木刻運動を展開1937年、日中戦争が勃発すると、李樺は軍属として国民党軍と共に各地を転戦しながら、各地の仲間と連絡を取りながら粘り強く版画運動・作品制作を続け、常に抗日木刻運動の指導的な立場にいた。― 287 ―
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