鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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するが、当局の弾圧によって逮捕・入獄され、のち一時期は上海で商業美術に従事した。魯迅の死去に際して、その肖像を制作したが、これは初期の代表作であろう。抗日戦時期は、山西を経て延安に移り、魯迅芸術学院で教鞭をとった。この時期には、連環画なども多数手がけた。延安で力群の作風は大きく変化、西洋風の模倣表現から脱却し、次第に伝統的な味わいの中にもモダンな叙情を感じさせる作品が増えた。のち延安で多色刷り年画の「豊衣足食」(〔図8〕、1944年)が制作され、辺区の豊かな生活を謳いあげた傑作である。古元(1919−1996)は、広東省中山県に生まれた。1938年、延安に赴き陝北公学に学ぶが、まもなく魯迅芸術学院美術系に転じ、木刻を学ぶとたちまち頭角を現した。1940年、同校卒業後に延安近郊の農村で書記となり、体験に裏打ちされた生活感溢れる版画を次々に生み出した。初期作品の「割草」は、国統区の重慶で展示されたとき、徐悲鴻の絶賛を浴びた。のち母校魯芸の教員となり版画創作を続けたが、内戦時期は東北解放区に移り活動した。延安時代に制作された「減租会」(〔図7〕、1943年)はもっとも有名であろう。五、日中戦争期における新興版画の役割美術は日中戦争で抗日宣伝に大きな役割を果たした。もっとも活躍したのは版画(木刻)と漫画である。日中戦争期の美術の主流は、「抗日宣伝」が中心だが、それには表現が直接的で訴求力が強く、しかも「製版技術」を省略できる木刻がおおいに活躍した。この時期、国内は国民党支配地域(国統区)と辺区(共産党支配地区)に分れたが、いずれにおいても版画家は活発に活動した。延安では、日本軍と国民党軍に二重に封鎖され、画材は無く木刻が中心的な役割を1937年7月、日中戦争が始まった。日中戦争期では美術家のとった行動は、重慶や桂林など国民党の管轄下の官制組織に入るもの、北京や上海の日本軍占領地域に残るもの、延安の共産党政権に協力しそこで宣伝活動を行うもの、さまざまであった。その異なる選択によって制作も変わる。とくに延安の共産党政権を選んだのはシンパの進歩的な青年美術家たちで、その多くは魯迅が興した新興版画運動に身を投じた。1938年4月、延安に抗日宣伝のための幹部養成学校、魯迅芸術学院(魯芸)が創設される。美術系では江豊・沃渣(1905−1973)・王式廓(1911−1973)・力群らが教え、古元・彦涵(1916−)ら多くの若手版画家を輩出した。彼らは各地に派遣されて美術を中心とする抗日宣伝の主役となった。― 288 ―

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