果たした。1938の年末、「魯芸木刻工作団」(団長・胡一川)が組織され、部隊とともに根拠地に移動して宣伝活動に従事した。1942年5月には毛沢東の「文芸座談会」が開催されたが、木刻の成果は1943年以降に表われ、生活に根ざした明るく堅実な作品がうまれた。古元の「減租会」(〔図7〕、1943年)は小作料の交渉をする農民の群像を画いているが、真ん中に大げさな身振りで引き下げながら抵抗する地主を、周りから逼ってくる瞬間を捉えられている。力群の「豊衣足食」(〔図8〕、1944年。彩色版は1945年)は「衣食満ち足りる」意味で、明快の画面により一家4人の幸せな光景を現し、辺区の豊かな生活を歌い上げている。一方、国統区では、疲弊した農村や困窮する都市生活などの現実を訴える作品が制作された。国統区では重慶・桂林が木刻運動の基地となった。1942年に重慶で「中国木刻研究会」が成立し、各地で巡回展が開催された。李樺・黄新波(1916−1980)・盧鴻基(1910−1985)・王琦(1918−)・黄榮燦(1916−1955)らが中心となって木刻運動を各地に拡大した。延安の木刻作品が重慶で展覧されると、徐悲鴻は古元らの現実主義的な作品を絶賛した。六、新興版画から新中国へ魯迅が唱導した新興版画運動は早くも若い版画家たちに受け継がれ、多くの青年画家が抗日戦争と解放戦争など、いわゆる「革命美術」に活かした。これは、魯迅が運動の当初からおそらく予想もしなかったことだろう。新中国建国後の美術界においては、共産党根拠地の「延安派」が、実績に基づいて大きな権力を握った。版画は抗戦を闘いぬいたという説得力がある。したがって、文革ころまでの美術界では版画家たちが大きな発言権をもっていた。それまでのリアリズムを引き継いで、新中国の建設のありさまを美化して描いた。新しく「新年画」も1938年、抗日戦争は対峙の段階に入ったが、その後は、長期にわたる消耗戦や日本軍による残酷な「掃蕩」、また国民党反動派の経済封鎖によって、延安の経済はきわめて大きな困難に陥った。一時は、辺区の軍民には糠しかなく、野菜で飢えをしのぎ、つぎはぎの服を着て、寒さを防いだ。このような状況下で、毛沢東は「飢え死にか? 解散か?それとも自ら手を動かすか?」と鋭く指摘した。そして彼は自ら筆をとって「自己動手」(自ら手を動かす)「豊衣足食(衣食満ち足りる)」と書いた。1942年には延安で、大規模な生産運動が展開された。「減租会」(〔図7〕、1943年)や「豊衣足食」などは辺区の農民生活そのものを描き、彼ら自身にもすぐ理解できる「文法」をもっている。― 289 ―
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