鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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注⑴文研出版、1988年。内山嘉吉・奈良和夫によるもの。⑵研文出版、2007年。同書の最初に奈良和夫氏の「中国新興版画の誕生」が掲載されているが、登場した。ソ連や日本との交流から導入された技法、多色刷油印や、多色刷水印も普及し始めた。全国の主な美術学院には版画科が設立され、版画の人材が養成された。戦後の中国美術界で「版画」はもっとも大きな流れであった。大きく二つに分かれているが、ひとつは抗戦を指導した木刻(木版画)、もうひとつは工農兵(工人・農民・兵士)の教育をリードするための「新年画」である。木刻は近代的な側面をもつが、新年画は伝統的な民間版画の概念を用いて新たに「新中国」「毛沢東」「社会主義」などを民衆にインプットするための道具となった。⑾1892年に生まれ、政治家、文学者、詩人、歴史家。中国の近代文学・歴史学の先駆者。1914年に日本へ留学。九州大学医学部を卒業。在学時から文学活動に励み、1921年に文学団体「創造社」の設立に参加する。1937年に日中戦争が勃発すると日本人の妻らを残し帰国して国民政府に参加する。重慶で戯曲『屈原』を発表、大きな反響を呼ぶ。戦後は中華人民共和国に参画して政務院副総理、中国科学院院長に就任した。日本との関係について関連の詳しい資料紹介は少なかった。⑶朝花社(上海、1929年刊)及び『魯迅全集』第9巻(人民文学出版社、1981年)342ページ参照。⑷永瀬義郎(1891−1978)、茨城県に生まれ、大正初期の時代から昭和にかけて版画や油絵を通して旺盛なる創作活動を続けた画家である。1904年に創刊された美術雑誌『みずゑ』に水彩画を応募し、画家になることを本格的に意識し始める。⑸『魯迅全集』第9巻(人民文学出版社、1981年)305ページ参照。ここの日本語訳については日本語版『魯迅全集』第9巻(学習研究社、1985年)を参照。⑹「『蕗谷虹児画選』小序」(『蕗谷虹児画選』朝花社、1929年)及び『魯迅全集』第7巻(人民文学出版社、1981年)325ページ参照。⑺「『新ロシア画選』小序」(朝花社、1930年)。日本語訳については日本語版『魯迅全集』第9巻(学習研究社、1985年)参照。⑻昇曙夢(1878−1958)は正教会の信徒であり、ニコライ・カサートキンの門下生の一人としても知られる。1915年、早稲田大学講師となる。1916年、陸軍士官学校教授をつとめる。1946年、ニコライ・ロシヤ語学院長に就任する。晩年、奄美群島の本土復帰運動に指導者の一人として参加し、運動に尽力した。⑼江西省新喩県の人で手工業者の子として生まれた。画家徐悲鴻(1895−1953)の勧めで、1933年に江西省派遣留学生として来日し、帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)研究科に入学した。建国後、伝統中国絵画を発展させ「江蘇画派」開祖の一人となり、江蘇省国画院院長などを務めた。⑽金原省吾は、大正6年(1917)早稲田大学文学部哲学科を卒業した。武蔵野美術大学の教授・教務主任として、教育経営に心血を傾注し、多くの俊秀を世に送り出した。⑿瀧本弘之編『民国期美術へのまなざし』勉誠出版、2011年。― 290 ―

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