研 究 者:大阪大学大学院 文学研究科 博士後期課程 礒 谷 有 亮はじめにチュイルリー公園の端に位置し、コンコルド広場を臨む人工の高台に建設されたジュ・ド・ポームは、1922年に「現代外国美術館」(Musée des écoles etrangèrescontemporaines)の名を与えられ、フランス以外の各国同時代美術を蒐集、展示する場として、1940年のナチスによるパリ占拠までその機能を果たしていた。同館では少なくとも一年に一度、各国美術を取り上げた展覧会が行われており、フランスと各国の美術外交上、不可欠の施設だった。また、館長を務めたアンドレ・デザロワの進歩的な運営方針により、パリ市内の公立美術館では初めて、同時代の前衛美術を積極的に展示した施設でもある。ところが、こうした美術外交上および、美術館・展覧会史上の重要性に反して、同館の総合的な活動内容はこれまで詳細に検討されてこなかった。本稿では、まず「現代外国美術館」の歴史と活動内容を明らかにする。その上で、同館の活動の主軸をなした各国美術展、とりわけ1929年の「日本美術現代古典派」展と1938年の「アメリカ美術の三世紀」展に焦点をあて、同館の機能を考察するとともに、当時のフランスにおける外国美術受容の様相の一端を明らかにする。Ⅰ.ジュ・ド・ポームの変遷1861年にナポレオン三世の認可により施行されたジュ・ド・ポームは、その名が示すように、当初はポームの競技場として機能した。その後、ポームがテニスに取って換わられる過程で、同館の利用者数は減退し、1909年に、収蔵品を持たず、企画展のみを行う展覧会場として使用され始めた。転機が訪れたのは1922年である。当時、フランス政府の購入、蒐集した存命中の作家の作品群、いわゆる「アール・ヴィヴァン」の作品は、芸術家の出自を問わず、まとめてリュクサンブール美術館に収蔵されていた。ところが、リュクサンブール美術館の収蔵量は、この時期には既に限界を迎えており、館内は様々な国家の多様な芸術作品で溢れる、混沌とした状況を呈していた。それを打開する策として、外国人作家の作品を自前のコレクションを持たないジュ・ド・ポームに移送する計画が持ち上がる。リュクサンブール美術館のキュレーターを務めていたレオンス・ベネディットの主導により、同館所蔵の外国美術作品、絵画・素描約420点、彫刻60点がジュ・ド・ポームに移された。これ以降、ジュ・ド・ポー― 294 ― 両大戦間期のジュ・ド・ポーム─「現代外国美術館」としての活動の総合的研究─
元のページ ../index.html#305