鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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Ⅱ .1929年、「日本美術現代古典派」展(Exposition d’art japonais: Ecole classiquecontemporaine)こうした各国展の一例である、「日本美術現代古典派」展は1929年に開催された〔図1〕。同展は駐日フランス大使であった、ロベール・ド・ビイにより1928年に提案され、それを東京美術学校長、正木直彦が快諾する形で開催が決定した。同展に関しては林洋子氏の論考、また同展理事を務めた正木直彦の『十三松堂閑話録』、および実行委員であった黒田鵬心の回顧録より、開催の経緯、受容などが明らかである。ムは「現代外国美術館」という名を与えられ、同時代の外国美術の蒐集、展示を基本方針とする国立美術館となった。この方針に従い、同館では各国美術に焦点を当てた展覧会が継続的に開催される〔表1〕。同館は1920年代を通じて、フランス外務省の管轄下にあり、ほとんどの場合、各展の内容は各国当局との交渉により決定された。それにより、各展覧会は著しく国家主義的な色彩を帯びることになる。パリ市内で美術展を行うことは、諸外国にとって自国美術の世界的な地位向上のために絶好の機会であった。そのため、各展の出展内容は同館の方針上の守備範囲である同時代美術に限らず、各国美術史を包括的に提示するものがほとんどだった。加えて、展覧会の内容は当時の政治情勢にも大きく影響された。たとえば、1936年には「スペイン現代美術」展、1937年には「10世紀から15世紀のカタロニア美術」展と、二年連続でスペイン美術の展覧会が開催されている。後者の企画段階に遣り取りされた書簡には、「本展は今日のスペインの政治的状況となんら関連するものではない」と明記されているが、1936年に勃発したスペイン内戦の状況を鑑みると、この記述を額面通り受け取ることはおおよそ不可能であろう(注1)。林氏が指摘するように、日本美術を取り上げた公式の展覧会は、大戦間期において1922年、1923年の二度、パリで開催されていた(注2)。これら二展においては洋画も多数出展されたが、洋画は単なるフランス絵画の模倣と捉えられ、高評価を得るに至らなかった。そのため、1929年の展覧会では、その教訓を生かし、あらかじめ洋画が排除され、同時代の日本画と工芸にその出展範囲が絞られた。派閥の別を問わず、同時代の芸術家を総動員する形で国策的に行われた同展に対して、パリの観衆の反応は上々だったようである。6月1日より7月15日までの会期中に、入場者は計38,228人、総出展数の約半数にあたる絵画81点と、工芸33点が売約、加えて絵画13点がジュ・ド・ポームおよびフランス、イギリス大使館により買い上げ― 295 ―

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