られた。合計売り上げは53万1千フランにのぼり、多少の誇張もあろうが、黒田曰く、「外国展覧会としては記録破りの異常な好成績」を示した(注3)。黒田の記録によると、出展作品中、特に人気を博したのは、小動物や虫を主題としたもの、そして日本画独自の技法がはっきりと認められるものだった。パリの各新聞・雑誌に掲載された批評もそうした側面を積極的に評価の対象としている。たとえば『フィガロ』紙には以下のように記述されている。(黒田は複数の批評を自ら邦訳した上で自身の回顧録に収めており、以下の引用は黒田の邦訳に準拠する。) 西洋美術は千の物を見落とし、虫などはあまり見ようとしないし、石ころ等に気を止めない。西洋美術が見逃す物を、極東はこれを拾ふ。東洋美術が如何に細々としていても怪しむに足りない。それは島国の美術だから。島国の人は小さい物に美しさを見出す。(注4)また、『プティ・パリジャン』紙には次のようにある。 日本人は油で画を描かない、昔のフロレンスの画家のやうに糊を以て岩絵具などを紙または絹の上に付ける。…〈中略〉…日本画家の心を養ふには質素な生活と四季折ふしの移り変わりさへあれば足る。(注5)これらの批評に顕著なのは、日本美術をその土着性と結びつけ、フランス美術との他者性を強調した上で、評価の対象とする態度である。外国美術に対するこうした評価のレトリックは、何もこの日本展に限って用いられたわけではなかった。1925年の「ルーマニア古代・近代美術」展はその一例である。同展のカタログにはアンリ・フォシヨンが序文を寄稿している。フォシヨンはルーマニア美術を、「ダキアという株から育ち、ラテン的な、あるいは地中海的な知性に貫かれたうねり」とした上で、同国の美術の展開を、その土地に育まれた固有のものとして称揚している(注6)。ケネス・シルヴァーが指摘したように、「ラテン的」あるいは「地中海的」といった語は、第一次世界大戦後のフランスで顕著となった「秩序への回帰」、と呼ばれるイデオロギーに呼応した、極めて政治的な含意に富んだ術語である。これらの語はフランス美術の特性を記述する際にしばしば用いられ、同国の美術を古典古代の正統な後継として定義づける役割を果たした。ロマンス語の系譜に属するルーマニアは、「ラテン的」なルーツをフランスと共有している。しかし、それはあくまで土着的なもので― 296 ―
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