あり、フランス美術とは決定的に異なる。フォシヨンの言に見られるこうした差異の強調は、逆説的にフランス美術の正統性を再定義する機能を果たした。当時のフランスにおける外国美術の評価は、フランス美術の中心性を前提とし、常にその性質を強化するように構築されていたのだ。日本側は大戦間期フランスに典型的なこうした外国美術受容の傾向を理解した上で、1929年の展覧会を組織した。他者性の強調を中心に据えたその戦略が功を奏し、日本展は成功を収めるわけだが、ここで着目すべきは、同展の作品選抜には、フランス側の意向が当初より多分に反映されていたという事実である。とりわけ仏大使、ド・ビイの果たした役割は大きく、正木の回顧録には、「駐日佛蘭西共和國大使ロベール・ド・ビイ閣下が、昨年秋予と共に親しく帝国美術院展覧会場に於て、今日巴里に送られた絵画及工芸の作者を選定せられた」とある(注7)。また、同時代の日本画家の作品に加えて、同展には、近代以前の絵画も展示されたが、これもまたド・ビイの提案に基づく決定だった。黒田は、ド・ビイから「比較的佛国に知られたる徳川時代の美術と、今回集りたる現代美術との推移を説明すべき明治大正の絵画を併せ陳列したいとの希望があつた」と述べている(注8)。したがって、この展覧会で示された日本美術の他者としての姿は、パリで日本美術の国際的評価向上を目指す日本側の思惑と、フランス美術の中心性保全という、日仏双方の利害が一致した上で生まれたものだったと言える。Ⅲ.1938年、「アメリカ美術の三世紀」展(Trois siècles d’art américain)一方で、1938年開催の「アメリカ美術の三世紀」展は、出展国とフランスとの異なる関係の在り方を示している。フランス側の提案が契機となった日本展とは異なり、アメリカ展はニューヨーク近代美術館(以下、MoMAとする)の理事を務めていた、アンソン・コンジャー・グッドイヤーの強い要望によって企画された。19世紀から20世紀初頭を通じ、アメリカではフランス美術の展覧会が多数開催されていたのに対し、フランスにおいては包括的なアメリカ美術展が開かれたことはなかった。グッドイヤーはこれを不満とし、フランス国立美術館長のアンリ・ヴェルヌに、パリでの大規模なアメリカ美術回顧展の開催を要求したのである(注9)。アメリカ側の不満に端を発する同展は、それを反映するかのように交渉が難航し、たびたび延期されることになった。同展の企画は既に1932年から存在したが、最終的に実現したのは1938年である(注10)。最大の争点となったのは、作品選定の権利である。グッドイヤーは出展作品の選択を、フランス側の干渉を排し、完全なMoMAの― 297 ―
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