鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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りわけチャーリー・チャップリンはフランスにおいて国民的と言ってもよい人気を博し、1928年刊行の『ヴュ』をはじめとする大衆グラフ雑誌でもさかんに取り上げられていた。MoMA側の最大の狙いは、伝統的芸術分野である絵画でフランス美術に対抗することにあったが、皮肉なことに、絵画や彫刻はあまり批評の俎上に載せられることはなく、「アメリカ的な作品展示の方法」を示す独自の分野であった、建築、映画のみが注目を集めることになったのである。アメリカ展の組織経緯と運営主体同士の関係性は日本展とは大きく異なっており、開催年にも約10年の隔たりがある。しかし、上述した同展の受容からは、日本展やルーマニア展に表れた、フランスの外国美術評価の典型を再び見て取ることができる。日本とは異なりアメリカは、フランス美術、とりわけフランス絵画の覇権に正面から挑んだが、外国美術受容の前提がフランスの中心性保全にある以上、同じ土俵での挑戦はそもそも勝ち目のない闘いだった。それにかわり、高評価を得たのは、他者としてのアメリカ美術、すなわち、フランスの伝統には属さず、伝統的芸術分野におけるフランスの優位性を脅かすこともない同時代の建築と映画だったのである。おわりに自国美術史の編纂が積極的に進められた両大戦間期のフランス美術界において、他国美術のみを扱う「現代外国美術館」は、あくまで周縁に位置した施設である。しかし、同館はその周縁性のゆえに、フランス美術の中心性、優位性を他者との関係性の内から規定する装置として機能した。一方で、その周縁としての立ち位置は、当時としては非常に実験的な展覧会の開催を可能にした。とりわけ、同館がフランス外務省の傘下から外れた1930年代には、1920年代に比べ、より国際的かつラディカルなテーマ展が開催されるようになる。1933年に行われた「エコール・ド・パリ」展をその嚆矢として、1937年の「国際独立派芸術の起源と発展」展〔図4〕や、「ヨーロッパの女性芸術家」展はその最たるものである。中でも「国際独立派芸術の起源と発展」展は、フランスの国立美術館で初めて、抽象美術とシュルレアリスムの作品を展示した「現代外国美術館」史上、もっともラディカルな展覧会であった。しかし、同展は、わずか5,000人の入場者を得たに過ぎず、各国家展と比べると、成果はふるわなかった。この事実は、前衛的な動向も含めた同時代の外国美術を展示する、という同館の理念と、1920年代の各国展で恒常化した、国家主義的な美術戦略に資する展覧会の開催という現実の間で、「現代外国美術館」が抱えていた潜在的なジレンマを示唆しているように思われる。本稿では取り上げることができなかったが、この側面については今― 299 ―

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