鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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【Ⅲ期 16〜17世紀】摘されている画中詞と絵解きの関係を考えても、読申の場においても、詞書の内容を補足するものとして用いられていたのではないかと推測される。物語を音声で聴くことと、日常的に耳にする会話を読むことは近しい関係にあるように思われる。音声をともなう物語絵享受のあり方が、画中詞という表現を、この時代の絵巻に定着させた一背景となっているのではないだろうか。Ⅱ期にあげた絵巻のうち、近年紹介された「法師物語絵巻」(個人蔵)(注6)は絵と画中詞のみで構成されている絵巻である。僧侶が登場する笑い話を集めた短編集で、『駿牛絵詞』紙背に写された「一口物語」と呼ばれた説話(注7)に該当すると考えられている(注8)。画中詞のあるこの絵巻がどのように享受されたのかは、その制作過程も含めて大きな課題である。後崇光院伏見宮貞成親王の『看聞日記』応永23年(1416)6月13日条には大覚寺殿(足利義昭)所持の「一口物語」の絵巻についての記事がある。応永27年(1420)11月13日付の伏見宮家の物語目録(「看聞日記紙背文書」)に「一口物語 一帖」とあり、『看聞日記』永享8年(1436)3月8日条には後花園天皇への叡覧に供した累代の書物の中に、「一口物語一帖」も含まれていたことが記されているため(注9)、伏見宮家にも冊子の「一口物語」が存在していたとわかる。先に見た「読申」の状況を鑑みると、テキストと絵が別に作られ、物語は耳で聴き、その補足として画中詞が用いられたということも想像できる。一方、『駿牛絵詞』紙背の当該箇所の、行間をゆったりと取った書きぶりは、絵巻の詞書の書写であることを示しているように思われ、あるいは現存する絵巻にも詞書があった可能性もある(注10)。工藤早弓氏は、画中詞に見られる口語表現に、室町時代中期以降に用いられる言葉がみられることなどを挙げ、『看聞日記』嘉吉3年(1443)にみられる「山寺法師絵二巻」との関連を指摘している。しかし、応永23年の時点で、自らが見た絵巻を「一口物語也」と書き記しているということは、後崇光院はすでに、同内容の物語に親しんでいたと考えられ、その後永享8年にも「一口物語」と記している書名について、「山寺法師絵」という別の名称を用いるだろうか、という疑問も浮かぶ。画中詞の口語表現が表す時代性は、絵巻の制作年代を考える上で重要な要素であるが、一方で、絵巻の制作当初から画中詞が書かれていたという確証も得られない。絵画表現からは古様も感じられるため、制作年代の判断にはなお慎重になるべきだろう(注11)。今後も多角的に検討を続けたい。Ⅱ期に続くいわば「全盛期」にあたるのが16世紀であり、ここではⅢ期とした。画― 307 ―

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