1.2 男性供養者第2身1.3 男性供養者第3身1.主室西壁佛龕下部北側(男性供養者列像)1.1 男性供養者第1身史(1947)、謝(1955)に記述なし。下野(2011)はペリオ(1907)において窟内位置を明示せずに記録された筆写を、この男性供養者第1身のものと推定している。但し下野氏はペリオ(1907)のcarnet(手書きノート)ではなく、手書きノートを活字に起こす際に付された同書の図版fig. 183を「安國寺沙門陳(?)…」と引用している。しかしペリオはcarnetにおいて「門」と「陳」の間に数文字分のスペースを空け、その間に「法」らしい字を筆写している。速水大氏は、僧侶の名として「沙門陳」は妙であると指摘され(注1)、実際にペリオもそのように記録してはいない。ペリオの記録を知ろうとする場合には、手書きノートを参照し引用するべきである。図像は僧形で手に柄香炉を持っている(注2)。カルトゥーシュ内には何も確認できなかった。土肥義和氏は、ペリオ(1907)と『題記』(1986)に窟内位置が明示されずに記録されている「安國寺」は敦煌の吐蕃時代の尼寺と同じ名称であり、この記録が男性供養者第1身のものであるかどうかを考える上で、また同壁にこの題記が書写された年代を考える上で重要であると指摘された(注3)。史(1947)、謝(1955)に記述なし。下野(2011)は、自身の調査では既に「榜題は判読不能」とし、ペリオ(1907)に窟内位置を明示せずに書写されている「上柱國劉懐念」を主室男性供養者像第2身に当たる可能性が高いとしている。『題記』(1986)は「上柱國劉懐念」を「ペリオノートにより補う」として掲載しており、窟内位置を明示していない。これは下野(2011)で指摘されているように、敦煌研究院による調査時には「上柱國劉懐念」の文字は既に風化して確認不能となっていたためと見られる。山崎(1995、2003)でも菊地(2013)でも文字は確認不能だった。なお速水大氏は、ペリオ(1907)と『題記』(1986)に見える「劉懐念」と、ペリオ(1907)と『題記』(1986)が甬道北壁第2身のものと位置を明示して記録する「劉懐徳」には、一族の同世代で名に特定の漢字一字を共有する当時の習慣が見てとれ、両者は年代が近いと考えるのが自然であり、年代の近い2人の供養者名を甬道北壁と主室西壁佛龕下部に分けて書くとは考えにくいと指摘された(注4)。史(1947)、謝(1955)に記述なし。― 315 ―
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