1.4 男性供養者第4身下野(2011)は、自身の調査時には「榜題は輪郭すら定かでない」とし、窟内位置を明示せずに書写されているペリオ(1907)の「上柱國徳暢」は主室男性供養者列像第3身に当たる可能性が高いとしている(注5)。『題記』(1986)はペリオノートにより補うとして、これらの文字を掲載している。山崎(1995、2003)、菊地(2013)でも文字は既に確認できなかった。なお速水大氏は、下野(2011)が主室男性供養者第2・3身のものと推定したペリオ(1907)に記録される「上柱國劉懐念」「上柱國徳暢」は、もし「上柱國」の前方に如何なる文字も書写されていなかったのならば、両者は勲官しか持っておらず、そのような位の低い人物が供養者列像の前方に位置していると考えるのは難しいと指摘された(注6)。史(1947)、謝(1955)に記述なし。ペリオ(1907)と『題記』(1986)は3行にわたり文字を採録している。山崎(1995、2003)ではこのうち4文字のアイコピーをとることができた〔図1−1から1−4〕。下野(2011)は自身の調査時には「文字の痕跡は見えるが判読不能」としている。下野(2011)はペリオ(1907)と『題記』(1986)の記述を「ほぼ同様」とするが、両者は同じではない。ペリオはcarnetにおいて「右毅衛」と筆写しながら、この「右」はあるいは「左」、「毅」はあるいは「驍」かも知れないとの書き込みをしている。『題記』(1986)は同箇所を「右(毅)衛」としている。ここで(毅)とは、「右」の次の文字は毅ではないかとの意である。池田温氏は、報告者に2002年10月から11月にかけて2通の書状を下さり、書中にて、『題記』(1986)所収のこの記述について「右毅衛という衛名はないので毅字は驍か、他字ではないか」と指摘された。この書状を受けて報告者は2003年9月に実地に観察したが、このときに確認できたのは〔図1−1〕から〔図1−4〕に示した4文字ほかペリオ(1907)と『題記』(1986)が記録する「上柱國」の「上」字の計5文字であり、衛名の確認はできなかった。しかし山崎(1995、2003)で確認しえた「上柱國」の「上」字の字形は、ペリオ(1907)のcarnetに筆写された「上」字のそれと大変近く、ペリオができるだけ実際に見える字形を忠実に筆写しようとしたことが分かり、賀世哲氏が2003年9月に口頭で報告者にご教示くださった通り、莫高窟供養人題記を研究する上でペリオの手書きノートが不可欠であることを実感した。なお山崎(1995、2003)のアイコピーにある「涼州」の「涼」字であるが、これは― 316 ―
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