鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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1.9 男性供養者第9身同窟主室西壁佛龕下部の男子供養者列像のうち、図像・カルトゥーシュ内の題記ともに最も保存状態が良好。ペリオ(1907)も史(1947)も『題記』(1986)も全3行にわたり題記を採録している。史(1947)はこの題記を「本殿裡壁左列第八身題名」「此為左脇壇前側第三身」としているが、下野(2011)は男性供養者列像の展開図作成とともに図像とカルトゥーシュの位置を対照させており、この成果を考え合わせると史岩氏の記載は男性供養者第9身のものと知られる。史(1947)は当該題記を、主室西壁佛龕前方の土壇南面の第3身目の供養者のものと認識しており、これは正しいが、同時に先頭から数えて第8身目とも数えている。これを第9身と改めて読むとの意である。史(1947)は題記の採録とともに寸法を測っており、「題名高二○公分、廣六公分、字径二公分」と記していて貴重である(注8)。『題記』(1986)は当該題記を「男戎校尉守左毅衛翊前右郎将員外置同正員外(郎)紫金魚袋上柱國嗣瓊」と採録している。ペリオ(1907)はこのうち第1字を「瓜」と記し、その下方に疑問符をつけている。また第3字を「世」と読んでいるが、『題記』(1986)は当該箇所をとしている。第4字は、ペリオ(1907)では「找」と記され下方に疑問符がついているが、これは『題記』(1986)では「戎」と記され、これにより「戎校尉」との見解が示されていることになる。池田温氏は2002年に報告者に宛てられた書状において、官制から第3字は「陪」しかないと指摘された。つまり実在の官制から考えると、官制に従って書写されたのであれば「陪戎校尉」であった可能性があるとのご指摘である。このご指摘を受け報告者は翌2003年に実地に観察し当該題記を1995年につづきよく見たが〔図4〕、第3字は既に風化して判読不能となっていた。ただ第4−6字は「…戎校尉」各字の一部に見えた。このうち第5字の「校」を史(1947)は「挍」と筆写しており、これは古い時代において木偏と手偏の区別がつきにくいことを忠実に筆写した跡であると思われる。山崎(1995、2003)でも当該字はむしろ手偏に近く見えた。また『題記』(1986)に「衛翊」とあることについて、池田氏は2002年の書簡の中で、もしも実際の官制に従って書写されたのであれば「翊衛」ではないのか、あるいは誤倒して書写されたのではないかと指摘された。これを受けて報告者は翌2003年に実地に観察したところ、〔図4〕の第1行(向かって左行)の第10・11字に示したように、ぎょうがまえの右側と「羽」の右半が見え、『題記』(1986)の採録通り「衛翊」と書写されていた可能性が高いと思われた。これについて報告者はこの調査の帰途上、蘭州のご自宅に賀世哲・施萍停両氏をお訪ねしてご見解を問うたところ、賀世哲― 318 ―

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