氏は「確かに官制からすると翊衛であるはずだが、当時の敦煌人が官名を逆さまに書いたり、誤って書くことはよくあった。書写人が誤倒に気づくとレ点を入れることもあった」と見解を述べられた(注9)。史(1947)は第2行目第4字を「日」の下に「豆」のような字形に記録している。山崎(1995、2003)でも同様に見え〔図4〕、菊地(2013)でもなおこのように見え、史岩氏が実際に見える字形を忠実に筆写したことが窺われた。史(1947)は活字本ではなく手書きの原稿を影印したものであればこそ(注10)、こうした原筆写の情報が伝わるものと思われる。この字は『題記』では「置」との活字に起こされ、同書p.237「莫高窟供養人題記別体字簡表」では「置」字の異体字が2つ挙げられている。この2つは各字の上半がいずれも「日」であり、確かにペリオ(1907)、史岩(1947)、山崎(1995、2003)に見える字形に近い。この例から古い時代の敦煌において、「置」字にさまざまなバリアントがあったことを確認することができ、興味深く思われた。郎紫金魚袋」と引用するが、この引用の仕方は正確ではない。『題記』(1986)は同箇所を「將員外置同正員外(郎)紫金魚袋」としており、「外」字の直後の字は「郎」であるか?、との見解を示しているのである。ペリオ(1907)も「員外」直後に「郎」字を記し、「郎」字の下方に疑問符をつけている。報告者は1995年と2003年に3行にわたりこの題記のアイコピーをとることができたほか〔図4〕、2001年の論文において当該図像を洞窟内でフリーハンドにてスケッチしたもの(すなわち、写真を描き起こして作成した図版ではない)を掲載した(注11)。下野(2011)は当該図像を調査され、ご自身の「現地調査スケッチの描き起こし」を報告論文に掲載しているが(注12)、山崎(2001)掲載のスケッチについて言及していない(注13)。また下野(2011)は自身の調査において「現地調査ではこのうち中央行と右行(第2、3行)の上半分ほどが判読できた」としている。一方、報告者はかつて山崎(1995、2003)において観察していたため、このときの記憶と記録に基づき2013年4月の調査でも向かって左の行(第1行)も見えた。第2行を採録した『題記』(1986)の記述を下野(2011)は「將員外置同正員外第3行は「上柱國嗣瓊」と『題記』(1986)に記されている。ペリオ(1907)は秋山(1982)のp. 196注12で指摘されているように、「瓊」のつくりの上半を「瓊」より多い筆画に書写している。この字は史(1947)にも記録され、山崎(1995、2003)・菊地(2013)でも観察可能だった。これらを総合すると、「瓊」字のつくりの下半は確かに「夊」のような形をしており、その上方は確かに「目」に見える。この字を「瓊」という活字に起こすことに報告者は違和感がない。― 319 ―
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