1.10 男性供養者像第⑽身いないので、秋山説は困難であると私は考える(注14)。その後私はこれについて問題意識を抱きながらも、同窟に見出した別の問題を先に論じ、2001年に紀要に論文を書いた(注15)。この論文では、いわゆる敦煌名族志残巻に見える陰氏が同窟の造営に深く関わったとの通説に、同窟の概術の部分で言及した。しかしこの論文の主眼をこの問題とは別のところに置いていたため、これについては深く考察していなかった。この論文の刊行後、私は池田温氏に抜刷を呈上した。池田氏は私の論文の抜刷をお読みくださり、2002年10月から11月にかけて私に2通の書状を送られ、同窟の漢語供養者題記に関して様々な指摘と問題提起をなさった(注16)。書中にて池田氏は、石窟の供養人題記のように現地の調査経験がきわめて重要な分野において、早くから現地に住み長年石窟の調査研究にあたられた賀世哲氏の見解は尊重されるべきこと、同窟の漢語供養者題記のうち、姓の明記されたものは張氏・令狐氏にとどまり、そのほかペリオの著録に劉氏・宋氏がみえるほかは、南壁発願文にも姓名はあらわれておらず、「陰」字は記録されていないこと、『題記』に「品子嗣玉」「男嗣玉」「嗣瓊」という名が記録されているだけで、いわゆる敦煌名族志残巻の陰氏に関する記述中の「嗣王」とどういう関係にあるのか簡単には決めにくいのではないかということ、他姓に「嗣瓊」はないのかという素朴な疑問が浮かぶこと、等を指摘された。池田氏が提起された諸問題について私はすぐには答えられず、この2通の書簡は、私が以後長く問題意識を抱く契機となった。四十年以上にわたり敦煌文書と敦煌石窟供養者題記に見える人名を研究されている土肥義和氏は、ご自身が収集された膨大な史料を検索して下さり(注17)、8世紀末から11世紀初頭の敦煌文書の史料の中には、他姓に「嗣瓊」は見当たらないとご回答くださった。ただし土肥先生が収集された史料は主に8世紀末から11世紀初頭のものであり、それ以外の年代の史料については、この回答の限りではないと添えられた。下野(2011)は男性供養者像第9身後方に「人物像一体分のスペースはあるが現状では表面に画像は確認できない。榜題は『題記』によれば、「……品子嗣玉/……男嗣玉」(『ペリオ』も同様)で、現地調査では中央行の「子嗣玉」が確認できた」と記している。下野(2011)の記す通り、第9身後方に人物像を確認することができないため、本項目の見出し「第10身」の数字を丸括弧に入れた。ただし題記は確認できるため、丸括弧は「第10身の位置のカルトゥーシュに」の意で付した。― 321 ―
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