鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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しかし私にはペリオ(1907)が「……品子嗣玉/……男嗣玉」と計2行に筆写しているようには見えない。ペリオは「……品子嗣玉」の後方に縦の2本線を入れており、これはこの題記の末尾を表す記号に私には見える。ペリオは「……男嗣玉」の後方にも縦の2本線を入れており、私にはペリオが全1行の当該題記に対し「……品子嗣玉」または「……男嗣玉」と2通りの読み方を示したように見える。『題記』は「……品子嗣玉」「……男嗣玉」を2行にわたって記している。下野(2011)は「榜題は『題記』によれば、「……品子嗣玉/……男嗣玉」(『ペリオ』も同様)」と記すため、ペリオも『題記』と同じく2行にわたり筆写していると理解していると思われる。かつ自身の現地調査では「中央行の「子嗣玉」が確認できた」としており、同箇所の題記は複数行あるとみなしているようだが、史(1947)は全1行とみなして「…子嗣玉」と記録し、には「嗣」字を推定している。報告者には山崎(1995、2003)でも菊地(2013)でも当該箇所の題記は1行に見えた〔図5〕(注18)。〔図5〕の第1字は下半が「力」に見えるようにも思うが、当該字全体として「男」と読むのは難しいと報告者は山崎(1995、2003)において感じた。また〔図5〕のトーンをかけた部分は、何かが塗り重ねられているようにも見えて判読が難しい。第2字目の「嗣」字は史(1947)が含みを持たせているように、私にも疑問の余地は残ると感じられた。第3字が「子」であるのか否かも決定はしがたいと思う。しかし上から数えた第4字(すなわち下から第2字目。この字の上方に何文字書写されていたのかは判断しがたい。ここで「上から数えた第4字」と言ったのは、正確でないかも知れない)は確かに「嗣」である。第5字は1995年には「玉」の点が見えるか否かは判断しがたく、あるいは「王」字かと思ったが、2003年には点が見えて「玉」字であると思った。ここに記される「嗣玉」は、いわゆる敦煌名族志残巻の陰氏の記述に見える「嗣王」の誤写であり、「嗣王」と同一人物である可能性が賀(1980)によって指摘された。2002年の書簡で池田氏が指摘されたように、同窟の漢語題記といわゆる敦煌名族志残巻中の陰氏の記述を直接に結びつける史料は目下これのみである(注19)。なお賀世哲氏は、2003年9月に同氏の元を訪ねた私に、『題記』に採録された「品子」の「品」字は「果」字であり、いわゆる敦煌名族志残巻にみえる仁果の子の意味である可能性を指摘された。やはり賀氏は同窟の供養者題記といわゆる敦煌名族志残巻の記事とを直接に関係するものと見なしておられた。― 322 ―

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