鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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2.5 女性供養者第5身2.2 女性供養者第2身2.3 女性供養者第3身2.4 女性供養者第4身2.6 女性供養者第6身(主室西壁佛龕下方南側の土壇北面)2.主室西壁佛龕下部南側(女性供養者列像)2.1 女性供養者第1身ペリオ(1907)と『題記』は窟内位置を示したうえで「妻南陽張氏供養」と採録している。史(1947)と謝(1955)には記述はない。下野(2011)は「現状では「供養」など一部のみ確認できる」とする。山崎(1995、2003)ではこのうち「妻」「南」「張」「氏」「供」「養」の6文字のアイコピーをとることができた〔図6−1から6−6〕。菊地(2013)では「妻」「南」「供」「養」の4字がなお見えた。私が2013年5月11日に行った8−11世紀内陸アジア出土漢文文書輪読会(於東洋文庫研究部)での研究報告の際に、土肥義和氏や婚姻関係を研究されている前田愛子氏ほか出席の諸氏から、当該題記の「妻南陽張氏」という、「妻」字の後方に地名と実家の姓をつづける書き方と、後述する第6・7・8身における、まず「嫁ぎ先の姓」を冠して次に「新婦」とつづけ、その後ろに実家の姓を記す書き方との違いに注意すべきであるとの指摘があった。先人の記録になく、現状でも字は確認できない。同上。同上。同上。ペリオ(1907)は「許新婦令狐氏」と筆写し、第1字の「許」字の下方に疑問符を付している。また第6字の「氏」の右には点をつけている。史(1947)も第6字を同じ字形に筆写している。この点は、山崎(1995、2003)でも明確に見え〔図7〕、ペリオ(1907)と史(1947)ではいずれも実際の字形を忠実に写し取った筆写が印刷に生かされており、手書き原稿の影印本の貴重さがここにも表れている。史(1947)は第1字をとし、嫁ぎ先の姓を明確に示していない。山崎(1995、2003)でも第1字は見えなかったが、第2字以下はよく見えた〔図7〕。下野(2011)の調査報告にも「第1字以外は明瞭に残る」と記されている。― 323 ―

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