鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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2.11 位置不明の題記3.2 門口南側このほか、ペリオ(1907)は窟内位置を示さずに「張新婦宋氏」の5文字を筆写している。『題記』(1986)はこれに従い、ペリオの筆記により補うとして、この5文字を記している。菊地(2013)でも窟内のどこにペリオが筆写した文字があったのか、確認できなかった。3.主室東壁3.1 門口北側甬道は多くの洞窟において開削後の後世に改修が行われた場所である。同窟の甬道付近も改修を経ており、主室東壁門口の北側(門口の縁)に、改修時に描かれた図像と全3行の題記が存在している(注22)。この題記は保存状態が良好であるため、ペリオ(1907)、史岩(1947)、謝(1955)、『題記』(1986)のいずれにも採録されている。山崎(1995、2003)のアイコピーを〔図10〕に示す。図像は題記に見える洪認像である。土肥義和氏は、この題記の寸法は26×15cmであり、題記に名が見える都僧政洪認は10世紀中期頃の位の高い僧であり、当時の有力な僧が改修に携わったと考えられること、S. 474Vに洪認の関連人名が見え、この僧名を検討すべきであることを2011年7月23日に書面でご指摘くださった。また土肥義和氏は、2011年7月の上記書面の中で、次のようにも指摘された。ペリオ(1907)において撮影された写真の中に、この洪認像に相対する位置である主室東壁門口南側(門口の縁)に描かれた在俗の男性供養者が明確に見え、改修時の供養者として重要であるが(注23)、1981年に刊行された『中国石窟 敦煌莫高窟』3では供養者像の痕跡しか認められなくなっており(注24)、この箇所の調査が待たれるとも指摘なさった。そこで報告者は2013年4月にこれを実地に観察したところ、男性供養者像は額の上方、僕頭の頭頂、耳、胸前に組む右腕、腰帯、腰下の衣をなお認めることができた。この男性供養者像の向かって左上には、地色が明るい黄緑色をしたカルトゥーシュの一部も見えた。甬道内北壁・南壁のカルトゥーシュの地色には、現状と『題記』(1986)の記述から、明るい黄緑色といわゆる“土紅色”の二色があったと思われ、カルトゥーシュの地色が近い甬道内南北壁と主室東壁門口南北両側(門口の縁)は同時期に改― 325 ―

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