修された可能性があると報告者は考えるに至った。本壁のカルトゥーシュ内には、現在文字を認めることはできないが、ペリオ(1907)は「男清信……劉承化一心供養」と筆写し、『題記』(1986)も窟内位置を示さず「ペリオの筆記により補う」としてこれを記している。さらにペリオは「男清信……劉承化一心供養」の隣に見える文字として「至元五年 月十八日/至此記耳」と記録している。至元五年は西暦1268年にあたる。ペリオはこの紀年題記を、「男清信……劉承化一心供養」の隣に見える文字としていて、「男清信……劉承化一心供養」につづく文面とは捉えておらず、「男清信……劉承化一心供養」の書写年代は1268年ではなく、甬道が改修された時期として良いと考えられる。4.甬道南壁4.1 供養者像第1身(男性)当該壁面にはカルトゥーシュが2つあり、改修時に2体の等身大に近い大きさの供養者像が描かれ(注25)、これにカルトゥーシュがそれぞれ付いていたと考えられる。第1身のカルトゥーシュは『題記』(1986)には“緑地”と記されているが、実際にはいわゆる“土紅色”である。ペリオ(1907)にも『題記』(1986)にも全2行の墨書題記が採録されているが、山崎(1995、2003)でも菊地(2013)でも既に風化して字を確認することはできなかった。カルトゥーシュの地色は黄緑色。墨書題記は山崎(1995、2003)でも菊地(2013)でも既に風化して確認することはできなかった。このほかペリオ(1907)には甬道南壁の題記として「天暦二年五月十五日紀年劉肆一人閑行到此」と筆写されている。「紀」「年」の下方には疑問符が付されている。これは当該壁面に、鋭利なもので刻された題記であり、墨書題記ではないことを報告者は菊地(2013)で確認した。天暦二年は西暦1329年である。4.2 供養者像第2身1268年はモンゴル時代にあたり、報告者が菊地(2009)と菊地(2011)においてアイコピーを採り、松井太氏に解読案を示していただいた同窟主室南壁願文表面の墨書による古ウイグル文字ウイグル語銘文の書写年代に近い。やはりモンゴル時代に同窟は主室も含めて巡礼の対象であったことを追って確認することができる。― 326 ―
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