鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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5.甬道北壁5.1 第1身供養者(男性)同壁には2体の供養者画像が描かれ、それぞれにカルトゥーシュが付されていた。第1身の題記はペリオ(1907)と『題記』(1986)に記録されている〔図11〕。このうちペリオは冒頭の文字を「弟」のような字形に筆写し、「第」ではないと思われるとメモしている。一方『題記』は冒頭を「男」と読んでいる。山崎(1995、2003)では、第1字は「男」、第2字は「弟」らしき字に見えた。ペリオは当該箇所についてこの第2字から筆写を始めたと思われ、山崎(1995、2003)でも「弟」か他字か判断が難しいと感じた。このことは敦煌においてしばしば当該字にバリアントがあることを指していると思われる。『題記』巻末の「莫高窟供養人題記別体字簡表」にも「弟」字の異体字が挙げられている(注26)。このほか山崎(1995、2003)では「史」「中」「劉」を判読できた。また第2行で『題記』が「兼御」と読んだ箇所にも字の存在を認めることができたが、このときには既に「兼御」と読めるか否かを判断することはできなかった。そして報告者が2013年4月に観察したときには、同カルトゥーシュ内には如何なる文字も確認できないほど風化が進んでしまっていた。またペリオ(1907)にはこのほかに同壁の題記として「索中此到記耳//一人李黒子//肖四一人閑行至此//李冕//」と筆写され、この壁面は撮影されている(注27)。これは墨書題記ではなく、鋭利なもので刻された題記である。ペリオは「此」と「到」の間に、倒置の意の書き込みを入れているが、この書き込みは「此」字右下にレ点のようなものが刻されていることを指していると思われる。この類いの記号のことを、2003年9月に賀世哲氏が私に口頭で示唆されたのかも知れない。第5字をペリオは「記」と筆写しているが、菊地は「這」字ではないかと思う。「肖四一人」の「四」はペリオの筆写の字形も何の字か判読しがたく、あるいは「四」ではないかも知れないが、気をつけなくてはならないことは、このペリオの筆写が活字に起こされる際に付された図版がペリオの筆写を正確に反映していないことである(注28)。「肖四一人」はFig. 179では「肖(?)四人」となっている。やはり供養人題記についてはペリオの手書きノートを見る必要があるとの賀世哲氏の指摘(2003)が想起される。ペリオが「肖四一人閑行至此」と筆写しているところの「至」は実際には「到」である。― 327 ―

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