鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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方の漢語願文の表面に墨書による古ウイグル文字ウイグル語銘文が全13行にわたって書写されていることを見出してアイコピーを採り、しかし自分には古ウイグル文字は全く読めなかったため松井太氏に解読案の提示を依頼して、これを示していただいた。このときには、それまで同銘文の存在に気づいていた人はいないと思っていた。しかし本助成研究で同窟の漢語銘文に特化した研究を行うことになり、ペリオ(1907)の手書きノートを見ていたところ、ペリオが1907年に同箇所の非漢語銘文の存在に気づき、一部を筆録していたことに気づいた〔図13〕。自分のアイコピーとペリオの筆録が当然似ていたからである。また私が今年度の助成研究の中でようやく古トルコ語の勉強を始めることができたことも、この気づきに繋がった。但し松井太氏は、ペリオは同銘文の存在に気づき一部を筆録しているが、同時にモンゴル語かあるいはウイグル語であり、釈読は難しいともメモしており、解読には到らなかったことに注意を促された(注30)。8.おわりに報告者は長い間莫高窟第217窟供養者題記をめぐる問題に興味をもち、実地調査をしつつ諸先学の見解をうかがって思考をゆっくりと進めてきた。今年度は、それらの思考を一旦まとめる段階にきていると感じていた。結果は、さらなる問題点が多数見つかる一方であり、本稿もあくまで報告書となり、論旨を展開させる論文とはならなかった。しかし今後の課題が数限りなく見えてきた。土肥義和氏は、第217窟の漢語供養者題記のこれまでの調査記録に「陰」字は見えなくとも、同窟の造営に陰氏が深く関わった可能性は十分あり、今後この問題を追いかけるためには相当に息の長い敦煌文書研究が必要であることを説かれた。また美術史を学ぶ私にとっては、同窟の漢語題記を実地に観察したことにより、字体(すなわちスタイル)の問題に自然に興味がわいた。ペリオの手書きノートを初め、先人のオリジナルな調査記録をもっと読み込む必要性も痛感した。さらに2000年敦煌学国際学術討論会(2000年7月29日から8月3日、於敦煌研究院)における私の口頭発表の際に賀世哲氏が大勢の各国研究者の前で質疑応答にお立ちくださり指摘された、洞窟の制作年代研究が如何に複雑で難解であるかを、改めて知ることにもなった。― 329 ―

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