鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
341/625

注⑴ 報告者は2013年5月11日に東洋文庫研究部の8−11世紀内陸アジア出土漢文文書輪読会(以下「輪読会」と略称)において「敦煌莫高窟第217窟の漢語銘文について」と題する報告を行った。この質疑応答におけるご指摘。⑵ 上記輪読会において関尾史郎氏は「男性供養者像の先頭に僧形の人物が描かれていることに注意すべきである」と指摘された。⑶ 上記輪読会におけるご指摘。⑷ 上記輪読会におけるご指摘。⑸ ペリオ(1907)では「徳」「暢」の下に疑問符が付されている。⑹ 上記輪読会におけるご指摘。また速水氏は次のようにも教示された。上柱国は唐の従二品の勲官。『旧唐書』巻42職官志を参照。勲官は制度上官人層に位置づけられるが、『旧唐書』の記述をもとに、武則天期以後、勲官のみしか持たない者は百姓(一般民)と変わらない地位に没落したという考えが通説である。⑺ 敦煌研究院科研処の范泉氏は、この表の高い学術価値を指摘された。⑻ 土肥義和氏は、上記の輪読会において、史岩氏が題記の筆写とともに寸法の測定を行ったことを評価され、報告者に供養者題記の調査時に自身でも寸法を確認するべきであったと諭された。⑼ 2003年9月末のこと。このときに賀世哲氏(故人)が口頭で示されたご見解を、本稿にて引用し活字にしてよいものか、私は当時の面談に同席された施萍停氏を2013年4月に再び訪ねて了解を求めたところ、施氏は快諾して下さった。賀氏は2011年3月に亡くなった。直後に発行された『敦煌研究』2011年第2期には、同氏の訃報が遺影ととともに掲載され、賀氏が長年供養者題記の調査に携わり、『題記』(1986)編纂の中心メンバーの一人であったことなど、同氏の経歴が綴られている。文中で同氏の学風は“常常將自己所知毫無保留地提供和傳授給同行學者及青年學子”と記されている。私は2003年9月に賀氏からご見解をうかがうことができたことを幸いに思っている。このときの賀氏の様子には、この追悼文に記されている通りの学風が表れていた。私は『敦煌研究』2011年第2期に掲載された賀氏の遺影に、長年現地に暮らして調査研究一筋の生涯を送られた考古学者らしい、他者が凌駕することのできない品格を感じずにはいられない。⑽ 史(1947)の書誌情報について喬秀岩氏(北京大学)よりご教示を得た。⑾ 山崎(2001)、p.9、挿図10。⑿ 下野(2011)、p. 187、図3。⒀ その一方で下野(2011)は、同報告論文中の別の箇所において、「壁画の諸要素の考察からも、本窟壁画が8世紀初頭頃の初唐末から盛唐初期にかけての作品であることが指摘されている。」とし、その一例として山崎(2001)を挙げている。さらに続けて、「供養者の題記についてはペリオの記録も含めて再考する余地があると考える。」とし、主室西壁佛龕下部の漢語供養者題記をもとに構築されてきた同窟の制作年代は、下野(2011)によって見直しを迫られることになった旨の記述が看取される。しかしながら、山崎(2001)は、同窟の様式史上の位置づけについてはこれまで研究者の間でずれがあり、また本来文学史上で使われ始めた「初唐」「盛唐」という用語は、造形の様式史上の時代区分の用語としてはそぐわない面があり、かつ同窟には、いわゆる初唐期窟群(7世紀前半から8世紀初め─前半までを含み、いつを下限とするかで研究者間にずれがある)に多く見られる古い造形要素と、いわゆる盛唐期窟群(吐蕃期の前までを含む)になってから見られる新しい造形要素が混在していることを指摘するものであり、本― 330 ―

元のページ  ../index.html#341

このブックを見る