鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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(2013)を参照。窟の絶対年代を8世紀初頭頃に置くものではない。⒁報告者は1996年7月に美学会東部会例会(於成城大学)にて口頭発表を行い、その中で自分の考察結果が莫高窟第217窟の制作年代を考えるうえでの指標の一つとなりうると述べた。この発表の質疑応答に秋山氏が立たれ、同窟の制作年代については、秋山(1982)p. 196注12に示した通りで良いと思うとおっしゃった。しかし私は当時から、同注の論証の仕方と提示された史料は間接的で明快に理解できないと感じており、この質疑応答は、以後長く私が同窟の漢語供養者題記について問題意識を抱く契機となった。しかし私は自分の疑問をこの質疑応答の場では言明しなかった。この発表に基づいた論文は同年末に刊行された。山崎淑子「敦煌莫高窟・唐前期壁画における制作技法の変化 ─「型」と画面構成の関係─」『美学』第47巻3号(187号)、1996年。⒂山崎(2001)。⒃この2通の私信の内容を差出人のお名前をあげて本稿に記し活字となすことについて、2013年3月に池田先生がご了解くださった。⒄土肥先生の長年にわたる敦煌文書・敦煌石窟供養者題記中の人名研究の成果の一部は、Dohi⒅土肥先生は、2011年6月4日の内陸アジア出土古文献研究会(於東洋文庫研究部)における発表「敦煌の陰氏をめぐる一考察 ─莫高窟第217窟との関係において─」でこの点を述べた私に、当該題記が全1行に見えることの重要性を指摘された。⒆なお、前注に示した内陸アジア出土古文献研究会の発表において、当該箇所の題記が「嗣玉」と見えるか「嗣王」に見えるかに悩む報告者に、岩本篤志氏は「玉」と「王」は字通であるので、それほど悩む必要はないと指摘された。⒇山崎(1995、2003)ではアイコピーが採れた字を下野(2011)が判読不能としているのは、報告者が調査した2003年9月以降、下野氏が行った2010年度調査までの間に、風化が進んだためと見られる。なお、同窟窟内の環境測定については次の専論がある。侯文芳・薛平・張国彬・張正模・王旭東「莫高窟第217窟微環境監測分析」『敦煌研究』2007年第5期(總第105期)、2007年。報告者は、2008年5月16日に財団法人東方学会によって開催された第53回国際東方学者会議での口頭発表「敦煌莫高窟第217窟における儀礼、供養者、装飾プログラムをめぐって」にて、次のように指摘した。「これまでの通説において、同窟題記中の「嗣瓊」「嗣玉」が同窟といわゆる敦煌名族志残巻中の陰氏の記事とを結ぶ論拠になっているのだが、同窟供養者といわゆる敦煌名族志残巻との関係は間接的に見える。同窟の漢語題記については再検討する必要がある。同じく唐前期の重要窟である第220窟が題記から明確に翟家窟と知られ、数世代にわたり、翟氏のために造営された“家廟”であるのと比べると、第217窟は陰氏一族のために造営された“家廟”であるかどうかは分からない。翟氏によって数世代にわたり、それぞれの歴史的局面に合わせて、甬道のみならず、主室内も大規模に改修された第220窟と異なり、第217窟は主室の主要壁面が塗り重ねられることなく、かつモンゴル時代に主室南壁が巡礼者の礼拝の対象であったことが、主室南壁発願文の表面に墨書された古ウイグル文字ウイグル語銘文によって知られる。だから、同窟は特定の氏族が主役となる“家廟”というよりむしろ、信仰内容が主役の洞窟だったのではないか。その信仰内容は無垢浄光大陀羅尼経に示されている内容と齟齬しないと推定される。」(当日配布レジュメ、口頭発表原稿、チェアパーソンによる『東方学会報』執筆記事のための2008年7月5日付報告者返信メールより抜粋)。これは、2002年に池田氏か― 331 ―

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