らの報告者宛書簡における「同窟漢語供養者題記に陰の字は記録されていない」旨の指摘に基づき、2003年に同窟漢語供養者題記と陰氏の関係をめぐる問題を意識して行った現地調査の成果に基づく発表である。 下野(2011)、p. 187図4。しかし下野氏は、山崎(2001)p.9挿図9に同図像のフリーハンドにての窟内におけるスケッチ(写真を描き起こして作成した図ではない)が掲載されていることに言及していない。 敦煌文物研究所(1982)、図80。 Pelliot(1983)、PL. CXVIII. 敦煌文物研究所(1981)、図108。 赤木崇敏氏は上記輪読会において、同氏がこれまで10世紀を中心とした石窟の供養者銘文を調査研究されてきた経験に基づき、各供養者画像の大きさに注意すべきことを指摘された。 敦煌研究院(1986)、p. 237. Pelliot(1992)、PL. CCCLXVI、CCCLXVII. Pelliot(1983)、p. 39、Fig. 179. 敦煌研究院(1996)、p. 85。 ペリオは敦煌調査当時、古ウイグル語とモンゴル語を即座に区別する能力を持ってはおらず、しばしばウイグル語のものをモンゴル語と誤認していることについて、森安孝夫氏が指摘されている。森安孝夫(1985)、p. 10。森安教授のこのご指摘について、松井太氏からご教示を得た。― 332 ―
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