文献目録和書・洋書は編著者名のabc順。中国語文献は編著者の拼音順。秋山光和「唐代敦煌壁画にあらわれた山水表現」『中国石窟 敦煌莫高窟』第5巻、平凡社、1982。特にp. 196注12。荒川正晴『ユーラシアの交通・交易と唐帝国』名古屋大学出版会、2010。特にpp. 467−469の陰嗣瑗と豆盧軍に関する記述を参照。土肥義和「九、十世紀の敦煌莫高窟を支えた人々 ─敦煌研究院編『莫高窟供養人題記』の数量的分析─」『中国の都市と農村』汲古書院、1992。土肥義和「特論敦煌の社会と仏教 ─九・一○世紀の莫高窟と三所禅窟と敦煌仏教教団─」『東アジア仏教とは何か シリーズ・東アジア仏教1』春秋社、1995。土肥義和「敦煌莫高窟供養人図像題記について ─その配置を中心に㈠─」『東アジア史における国家と地域』唐代史研究会、1999。土肥義和「曹氏帰義軍後期、敦煌管内佛教教団の写経事業記録の分析 ─「敦煌遺書」の性格を探って─」『敦煌吐魯番出土漢文文書の新研究』財団法人東洋文庫、2009。Dohi Yoshikazu, “The Dynamism Inherent in Han Chinese Personal Names as Shown in Index of Chinese Surnames Appearing in the Dunhuang Chinese Documents Dating from the Late 8th to the Early 11th Century”The First International Symposium of Inner-Asia Research Networks, Central Asia Studies and Inter-Asia Research Networks: Integrated Study of Dynamism in the Central Asian Regional Sphere Abstracts, Toyo Bunko, 2013, pp.3−8, +Bibliography.敦煌研究院編『敦煌莫高窟供養人題記』文物出版社、1986。敦煌研究院編『敦煌石窟內容總録』文物出版社、1996。賀世哲「敦煌莫高窟供養人題記校勘」『中國史研究』1980−3、1980。賀世哲「從供養人題記看莫高窟部分洞窟的營建年代」『敦煌莫高窟供養人題記』文物出版社、1986。第217窟に関する記述は、同氏1980年論文とほぼ同じである。池田温「唐朝氏族志の一考察 ─いわゆる敦煌名族志残巻をめぐって─」『北海道大学文学部紀要』13−2、北海道大学、1965。池田温「八世紀初における敦煌の氏族」『東洋史研究』24−3、東洋史研究会、1965。季羨林主編『敦煌學大辭典』上海辭書出版社、1998。氣賀澤保規『府兵制の研究 ─府兵兵士とその社会─』同朋舎、1999。菊地淑子「石窟寺院の洞窟を芸術作品として解釈する試み ─敦煌莫高窟第217窟の享受の歴史─」『髙梨学術奨励基金年報(平成20年度)』財団法人髙梨学術奨励基金、2009。菊地淑子「敦煌莫高窟第217窟に遺された銘文をめぐる問題 ─主室の古ウイグル文銘文─」『髙梨学術奨励基金年報(平成22年度)』財団法人髙梨学術奨励基金、2011。樓勁・劉光華『中國古代文官制度』中華書局、2009(修訂本)。前田愛子「唐代山東五姓婚姻與其政治影響力 ─通過製作崔氏、盧氏、鄭氏婚姻表考察」『唐史論叢』第14輯、陝西師範大学出版總社、2012。森安孝夫「Ⅰ ウイグル語文献」『講座敦煌6 敦煌胡語文献』大東出版社、1985。Ning Qiang, Art, Region, and Politics: Dunhuang Cave 220, Ann Arbor: UMI Company, 1997. 西林孝浩「第217窟小考」『朝日敦煌研究員派遣制度記念誌』朝日新聞社、2008。Paul Pelliot, Mission Paul Pelliot, documents conservés au Musée Guimet. Documents Archéologiques Ⅺ; Grottes de Touen-Houang; carnet de notes de Paul Pelliot. Inscriptions et Peintures Murales Ⅱ. – Grottes 31 ― 333 ―
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