い。ただし近年の図版解説では作品の時代判定を「室町時代」(注15)、「室町時代(十六世紀)」(注16)としている。しかし薬師寺本の発見により正吉の活躍年代を江戸時代前期(17世紀)とする必要が出てくる。子弟関係についても不明のままである。土佐光茂の二男とする説についても真偽を確認できる資料は管見の限りでは存在していない。土佐光茂の息子であったにせよ、土佐光元や土佐光吉の生没年と比べて隔たりがある。土佐家に所縁のある絵師であったにせよ、土佐光茂の二男である可能性は低いだろう。また、画風の影響関係について「おそらく武家の一人で、土岐系の画風に近いものがあり」(注17)、「樹法、画面構成など「土岐の鷹」に近似しその影響下にあることは疑いない」(注18)、とする中村溪男氏や榊原悟氏の意見がある。「土岐の鷹」とは室町時代に美濃の守護であった土岐氏の人間が描いたとされる一連の鷹図のことである。土岐の鷹と称する作品は数百点あると言われ、その画風や流派としての整理は進んでいない(注19)。確かに、土岐の鷹として有名な作品は、松や枯木に乗る鷹の姿を描き、正吉画に近似した構図を持っている。しかし、現在のところ「土岐の鷹」の体系だった様式は見出し得ず、土岐の鷹の流れを汲むか否かは判断を控えたい。『増訂古画備考』では、曽我直庵に学んだかと記しているが、画風の比較を行うと正吉画は直庵の鷹図に良く似た特徴を持っており、実直に直庵画を学ぼうとした姿勢が見られる。曽我直庵の生没年は不詳であるが、紀年銘のある作品や賛者の生没年などから慶長年間には活躍していたと考えられている(注20)。現存作例は猛禽類を描いたものが多く、正吉が師として学んだとしても時代の齟齬はない。また、息子と考えられる二直菴に学んだとすることも可能であろう。まず表情の類似点を挙げると、丸く眼球を描き、中心から幾分前の位置に、他の絵師に比べて幾分小さめの眼精を点じる。眼精の位置の決定は表情を左右する重要な判断になるが、曽我派による鷹の眼精はほぼすべての作品を通して変化が少ない。また口の表現はほぼ真一文字に結んだ形で描かれる。この特徴は個性的な表情を求めるよりは無表情であるがぶれのない精悍な鷹の姿を現すことができる。また羽の描写も類似している。背面の羽の描写は個性が出にくいが、胸部から腹部の描写は絵師の個性が出やすい。特にオオタカの成鳥の横斑の描写は抑揚をつけて波形を描き所々に縦線を施す直庵画に近い描写を行っている。江戸時代の鷹の図像は、風貌やポーズなどが直庵や二直菴のものと類似する例が多く、曽我派の影響が大きかったことが窺えるが、藤原正吉も曽我派の図様を踏襲する一人として数えることができるだろう。― 341 ―
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