鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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尚、藤原正吉は武士であったとする説がある(注21)。その根拠とされるのが正吉が佐渡掾という官職名を名乗っている点である。ただし、この律令制で国司の第三等官のことを示す掾という官名は、中世以降は職人や芸能人など地下の者が受領した名誉称号となっているという(注22)。絵師は僧位である法橋などを受ける例が多いが、掾号を名乗っている絵師の例としては、ギッターコレクションの中に土佐大掾元庸筆「洛中洛外図屏風」が存在する。この土佐元庸について小澤弘氏は詳細不詳の絵師としているが、土佐光元の系譜を引く近世期の絵師である可能性を指摘している(注23)。現在佐渡掾や佐渡大掾を叙任された者を調べているが、藤原正吉の叙任の記録は見出せておらず僭称の可能性もある。それ以外には鏡師・南都墨師・鍛冶の名がみられ(注24)、叙任の記録は見出せていないものの始め佐渡大掾、後に佐渡守を称したとされる寛永万治年間の刀匠国富の存在の報告もある。また元禄頃に活躍したとされる大和包保流の刀匠包明の初名が正吉であるという(注25)。正吉が武士であった可能性は低くなるが、墨師や刀匠であった可能性は考慮すべきだろう。また、官職名について気になるのが、薬師寺本の署名には「山本佐渡守藤原正吉筆」とあり、「佐渡掾」ではなく「佐渡守」と記した上で、「佐渡掾藤原正吉」の印を捺している点である。この点だけ考えると、署名は後補であるとも考えられるが、八幡神への奉納文であるという性質から考えてただちに後補とすることは憚られる。官職が佐渡掾から佐渡守へ昇進した後も、佐渡掾印を使ったのであろうか。画風からこの作品は藤原正吉のもので問題ないと考えられる為、現状では署名も含めて真筆として考えておき、今後の資料発掘を俟ちたい。5.家光治世の鷹図薬師寺本が描かれた慶安元年(1648)は徳川家光治世の晩年にあたり、三年後の慶安四年(1651)に家光が没する。慶安元年が、藤原正吉にとって晩年であるか若年であるかは不明だが、ひとまず家光治世に存在した人物として位置づけることができる。最後に藤原正吉の作品を家光治世の美術史に位置づけてみたい。家光治世の寛永の頃には、鷹図を多く描いた絵師が目立って存在する。活躍年が分かる二代目橋本長兵衛(生年不明〜1647)や三谷等宿(1577〜1655)だけでなく、曽我二直菴などもこの時期には活躍していたと考えられる(注26)。鷹図の名手とされた者や鷹ばかりを描いた絵師が存在していたということは、それだけ鷹図の需要が高まっていたことの証左であり、正吉も時代の要請によって鷹図を多く描いたものと考― 342 ―

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