鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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えられる。また、寛永年間以降、神社へ鷹図や鷹図絵馬を奉納する例が目立ってくる。代表的な例としては、小浜藩主・酒井忠勝の指示で二代目橋本長兵衛が描いた「鷹絵図屏風」や「架鷹図絵馬」(寛永13年日光東照宮へ奉納)や、阿部重次奉納の伝狩野探幽「鷹絵額」(現仙波東照宮蔵、寛永14年二の丸東照宮奉納か)の例が挙げられる。いずれも、酒井忠勝(当時は年寄)や阿部重次(当時は六人衆)など幕府の要人によって東照宮へ奉納されている。鷹図絵馬の奉納は、慶長5年(1600)の記銘のある厳島神社の絵馬や、慶長12年(1607)の藤堂高虎奉納の絵馬(伊吹八幡神社蔵)が古い例であるが、やはり寛永年間以降に目立ってくる。推測ではあるが、鷹図絵馬を奉納する行為は幕府の要人による東照宮への奉納が契機となっている可能性が考えられる。鷹図の奉納は東照宮に限らず、八幡宮(社)に奉納される例が多い。八幡神は国家鎮護の神とされ、武士の世にあっては武神として崇敬をうけた存在であった。宣教師フランシスコ・パシオによる「太閤秀吉の臨終についての報告」によれば、秀吉は「新八幡」と称されることを望み、その理由を「日本人の間では軍神として崇められていたからです。」としており(注27)、戦国時代には八幡神は軍神として認識されていたことが分かる。なにより殺傷行為を行う鷹の絵を奉納することは、なにかしら軍事行為や、鷹や鷹狩自体との関係を考慮すべきであろう。家光治世の鷹図絵馬奉納のリストを挙げたが〔表2〕、先に記した例を含め十二例が存在する。奉納者は徳川家一門や姻戚関係がある藩主、そしてその家老によるものが多い。家康への崇敬の念をもって東照宮勧請を行い、それにともなって鷹図を奉納したと考えられるが、ほとんどが寛永後半以降であるということは、寛永13年(1636)の日光東照宮大造替が契機となったと考えられる(三十六歌仙図絵馬を伴う例が多い)。その他の例として、古くより家康に仕え戦地にも赴き、後に家康や秀忠の鷹場である忍や鴻巣の代官となった天野彦右衛門(忠重か)の例が挙げられる。鷹場を媒介として徳川家との繋がりが密接であった者による奉納例として位置づけることができるだろう(注28)。また、由井正雪の奉納例がある。正雪は神田で兵法の塾を開き兵学者として名の知れた存在であったが、当時の政治に対しての抗議行動を企てた慶安事件の首謀者である(注29)。絵馬はこの抗議行動の成功を祈念したと伝えられる(注30)。抗議は未遂に終わったものの、久能山東照宮での挙兵・籠城を画策していたとされる。久能山へ― 343 ―

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