鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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研 究 者:徳川美術館 学芸部課長  吉 川 美 穂はじめに田中訥言(1767〜1823)は、「復古大和絵派の祖」として知られる画家である。はじめ石田幽汀のちに土佐光貞に絵を学んだが、平安・鎌倉時代の古絵巻を精力的に模写・研究し、形式化しつつあった大和絵に「復古」という新風を吹き込んだ。弟子の浮田一蕙、渡辺清、そして歿後に彼に私淑した冷泉為恭らとともに、後に「復古大和絵派」と呼ばれ、一画派として捉えられている。訥言は尾張出身とされ、同地に多くの作品を遺したため、「尾張の画家」と称されることがあるが、『平安人物志』文化10年版に掲載されるように、京都を本拠地として活躍した。尾張には顧客を抱えて一時的に逗留していたにすぎず、晩年まで師の光貞の遺児光孚を補佐し、京都に歿した(注1)。近年、朝日美砂子氏により落款の署名による作品の編年が行われ、多彩な画風とその変遷が明らかにされつつある一方で、「復古大和絵派」の定義である大和絵系の画題は意外に少ないとの見解が呈されている(注2)。しかしながら、こうした訥言の遺作の多くは、落款の書体から「入訥期」と称される文化6年(1809)43歳以降の後半生に集中しており、前半生の画業が十分に解明されたとは言い難い。本稿では、田中訥言が27歳の寛政5年(1793)に松平定信の命を受けて模写した新出の「当麻曼荼羅縁起」模本(以下、「新出本」と略称する)を軸として、訥言の前半生に古画研究がいかに行われたかを、訥言をめぐる人間関係から読み解き、その歴史的意義を明らかにするとともに、訥言の前半生における画業の解明を試みたい。1、田中訥言模写「当麻曼荼羅縁起」新出本は、天平宝宇7年(763)に中将姫が国宝「当麻曼荼羅図」を蓮糸で織りなしたという織成伝説を描いた縁起絵巻・国宝「当麻曼荼羅縁起」(鎌倉・光明寺蔵、以下「原本」と略称する)の模本である(注3)。国宝の原本と同じく光明寺に所蔵される (注4)。原本と同様、二巻本だが、原本の紙本着色に対して紙本淡彩である。全体に樟脳によるシミがあるのが惜しまれるが、原本の剥落は絵具を置かず、白抜きであらわした、いわゆる剥落模写である〔図1、2〕。原本より天地をわずかに大きくとり、原本の紙継ぎにみられる経年の汚れ〔図3〕や天地の傷み、虫損までをも克― 349 ― 田中訥言の古画研究─松平定信との関わりを中心に─

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