合戦絵巻」詞書の鑑定で登場する、定信の取り巻きの一人であった。公風は古筆に明るい尹祥の息子という理由で定信に抜擢されたのであろう。一方、訥言は当時27歳で、新出本は本画を含め、これまでもっとも早い現存の年紀作で知られていた寛政6年の「佐竹本三十六歌仙絵巻」(模本 個人蔵)よりも一年早く、現存の初出作となる。落款がなく、訥言と判断する手がかりは箱書のみだが、新出本は訥言が剥落模写を創始したという伝承(注7)を信ずるに足る精緻さを見せている。2、松平定信の伊豆・相模巡見と「当麻曼荼羅縁起」新出本は、訥言の現存初出作のみならず、寛政5年(1793)という模本の制作年でも注意を引く。発注者の松平定信(1758〜1829)は、前年にロシア使節ラクスマンの来航によって海防掛に命ぜられており、この年、海防警備のため伊豆・相模の海岸を巡見している。定信一行は3月18日に江戸を立ち、相模から伊豆の沿岸を視察して20日あまりの道程で4月7日に帰府した。巡見に同行した谷文晁(1763〜1840)に各地の風景を西洋画法で描かせ、自ら題したのが、重要文化財「公余探勝図」(東京国立博物館蔵)であることはよく知られている(注8)。黒川真頼『考古画譜』には、「当麻曼荼羅縁起」の項に「住吉慶恩筆、詞書、後京極殿筆二巻、鎌倉光明寺蔵、拳在二白川邸一、原本、寛政癸丑(5年)夏観二于豆相道中一」という一文があり(注9)、この海防巡見の折に鎌倉・光明寺にあった原本を定信が目にし、模本を制作したことが確認される。新出本は定信の蔵書印を有することから、「白川邸」に在ったという模本にあたる可能性が高いとみられる。新出本の内箱蓋裏に定信の極書があることを先述したが、これと同一の文章が原本附属の定信自筆添状(注10)と『退閑雑記』(注11)にも見出される。ただし、文末の日付に二通りあって注意を要する。すなわち、新出本と『退閑雑記』の日付は「八月三日」、原本の添状は「十月九日」である。これらの日付から勘案するに、海防巡見の折、定信が鎌倉・光明寺を訪れたのは3月末から4月初めとみられるため、おそらく模写は現地ではなく、原本を借用して行われたのだろう。定信が筆者を住吉慶恩と極めたのが8月3日、模本が完成し体裁を整えたのが9月、そして光明寺に原本を返却するため、定信が添状をしたためたのが10月9日だったと推測される。ところで、定信にとって寛政5年は激動の年だった。老中職にあった定信はたびたび辞職願を書いて将軍の信任を問い、政権の維持に利用した。この年も海防巡見を終え、5月24に松平信明に辞職願を提出している。このときは認められなかったが、7― 351 ―
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