月5日に再度提出したところ、7月23日に将軍補佐役と老中を解任されることになった。解任の件を前日に知った定信は、「殊之外立腹」し、承諾するかわりに諸条件を本多忠籌に出し、溜詰昇格とともに少将昇進と御用部屋出入りの件を認めさせたという(注12)。定信の辞職願を承認する形での解任とはいえ、外交問題や沿岸防備計画などの重要問題にみずから取り組んでいた最中であったから、定信にとって解任は不本意であったはずである。しばらく失意のなかにあったとしても不思議はないが、7月23日の解任からわずか12日後の8月3日に、新出本と『退閑雑記』の極書は書かれている。定信は「予が無用のものをこのむ癖をぞ知りける。道すがら寺なんぞみれば、ふるきものやあるとたづぬ」(『退閑雑記』後編巻三)、「予は古き文書、又は画図、古画、古器などを写しおくをたのしむ。此事多き旅行なれど道すがら寺院などの什物取り寄せ、夜などもうつし止めて行きぬ」(『宇下人言』)とみずから書き記すほど、古書画に並々ならぬ関心を寄せた好古趣味の大名でもあった。もとより海防巡見に時の老中が加わること自体、異例のことだったが(注13)、鶴岡八幡宮では同行の谷文晁に神庫の古文書や宝器を写させ(注14)、そして光明寺では「当麻曼荼羅縁起」を後日、模写させており、定信の巡見は海防警備のみならず、文化財調査の色合いをも濃厚に帯びていたといえよう。定信の海防巡見は、文晁の代表作「公余探勝図」を生んだばかりか、弱冠27歳の若き訥言に、解任前後とはいえ、時の老中の命を受けて「当麻曼荼羅縁起」を模写する機会を与えた。ただし、文晁と異なり、訥言が巡見に同行していた形跡はない。原本の所在から考えて、模写は江戸近辺で行われたとみられるが、京都在住の訥言になぜ模写の命が下されたのか、こうした経緯を生み出すにいたった定信と訥言のかかわりを次に検討していきたい。3、定信の古書画調査と訥言寛政5年からさかのぼること6年、天明8年(1788)正月に京都で起こった大火災によって、内裏は灰燼に帰した。定信は同年3月に内裏造営の総責任者に命じられ、内裏造営と現場の惨状視察をかねて5月に京都に赴いた。裏松光世の労作『大内裏図考証』に基づき、壮大な内裏造営を要求する光格天皇の朝廷側と、財政難から規模縮小を主張する定信の幕府側との攻防の結果、定信は平安朝の古制で内裏を再建することを決定した (注15)。ただし、経費削減のため内裏造営に伴う障壁画制作の多くは、地元京都の絵師たちに命ぜられた。天明8年に22歳で法橋に叙され、寛政2年には24― 352 ―
元のページ ../index.html#363