鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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歳だった訥言も、師の土佐光貞をはじめ岸駒ら京都在住の絵師たちとともにこの障壁画制作に参加し、常御殿の南廂東方の杉戸に「海棠 瑠璃鳥」「木芙蓉 翡翠」を描くという恩恵に与かっている(注16)。内裏障壁画のうち、もっとも権威ある紫宸殿の賢聖障子は、当初、狩野派の総帥である狩野栄川が担当するはずだったが、栄川が途中で死去したため、定信により住吉広行が抜擢された。広行は幕府の儒者柴野栗山らと賢聖障子の服装などの考証を重ねた末に絵を完成、寛政4年10月に柴野栗山・屋代弘賢らとともに京都へ赴き、内裏で張り立てを行った(注17)。この上京中、一行は定信の命を受け、京都近在の諸社寺の什物調査を実施している(注18)。この調査は、京都の藤貞幹の助けを得て行われたが、ここに訥言が画工として加わっていたことが判明する(注19)。寛政8年には定信の『集古十種』編纂のため、谷文晁が学者広瀬蒙斎らとともに京阪、山陽地方を古文化財調査に訪れた。6月19日、文晁と蒙斎は有職故実家の橋本経亮を訪ね、6月24日には経亮と連れ立って栂尾の高山寺を訪れている。文晁の『過眼録』には「六月二十四日同観橋本肥後守、田中訥言、成瀬正胤、此日鳥羽僧正戯三巻、文晁、訥言、正胤拳」とあり、文晁が訥言・成瀬正胤とともに高山寺の「鳥獣人物戯画」を模写したことがわかる(注20)。さらに寛政12年にも文晁が西上し、訥言と邂逅している。文晁の「近世名家肖像」(東京国立博物館蔵)に「寛政十二庚申寿像」と年紀がある訥言の肖像から、そのことが裏付けられる(注21)。このように寛政4・8・12年と顔ぶれは異なるものの、定信の命による京阪の古書画調査の折に、主要メンバーが再三にわたり訥言と接触していることが確認される。山田秋衛氏は、定信と訥言の接点は寛政2年の内裏造営に始まると推測されているが(注22)、内裏造営で訥言は花鳥画を描いたに過ぎず、これをもって定信の目に留まったとは考えにくい。むしろ、寛政4年に柴野栗山らの調査に参加したことが二人の接点を生む直接的な要因になったと思われる。玉川大学教育博物館に所蔵される訥言筆「朱文公像」〔図7〕は、柴野栗山の賛を有しており、年紀はないものの、落款は寛政6年の「佐竹本三十六歌仙」(模本)に近い楷書体で「田訥言薫沐拝写」〔図8〕と書かれており、この頃の栗山との交流を物語る貴重な初期作とみなされる。「薫沐」という言葉から身を洗い清め、緊張した面持ちで制作に臨んだ若き日の訥言を垣間見ることができる好資料である。もっとも、寛政4年に26歳だった訥言が栗山らの指名を直々に受けたとは思えず、次に述べるように藤貞幹・橋本経亮といった京都を代表する考証家・有職故実家とい― 353 ―

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