鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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った、いわゆる好古家たちを通じて接触を持ったと考えるのが自然であろう。4、京都の好古家と訥言藤貞幹(1732〜97)は、裏松光世『大内裏図考証』にも協力した京都きっての好古家で、有職故実を高橋宗直、儒学を柴野栗山に学び、寛政元年(1789)には内裏再建をめぐって栗山と意見を交わした(注23)。日本の古代史に関心が深く、古文書・金石文・器物・書画の調査に各地を歩き、その成果は寛政7年刊の『好古小録』、同9年刊の『好古日録』にまとめられた。この両書の挿絵を担当したのが訥言である(注24)。一方、橋本経亮(1755〜1805)は、本居宣長に「右橋本ハ俗人ナラズ、古学篤志ノ人ニ而、甚厚情ノ仁ニ御座候」(注25)と言わしめた好古の人であった。高橋宗直に故実を学んで、藤貞幹とは同門であり、寛政6年には貞幹の『好古小録』に序文を寄せている。さらに寛政7年3月25日には、水戸の儒者 立原翠軒が経亮と貞幹の案内で、京都・檀王法林寺で行われた法隆寺の出開帳に赴き、その後京都・丸山(円山) 眼阿弥亭で開催された書画展観会へ足を運んでいるが、そこで一行は訥言より室内に掛けられた書画の作者についての説明を受けている(注26)。このときの法隆寺出開帳を機に制作されたとみられるのが法隆寺蔵「法隆寺宝物図巻」三巻で、その識語から訥言がその図を描き、貞幹・経亮・甘露寺国長・山科忠言らによって寛政7年5月に同寺に奉納されたことが判明する(注27)。ここに紹介した貞幹・経亮と訥言のかかわりは、寛政4年にさかのぼるものではないが、訥言が貞幹の研究の集大成である『好古小録』『好古日録』の図を描き、行動の多くを共にしていることから、彼らを通じて栗山の知遇を得たことは想像に難くない。20代後半に貞幹らの古物調査に加わって多くの古物を見聞し、かつ彼らの考証あるいは「復古」の拠り所となる視覚的資料を提供していたことは、訥言の初期の画業を考える上でも多くの示唆に富む。こうした経験が買われ、寛政4年の柴野栗山らの古物調査への参加、そして翌5年の定信の命による新出本の模写へと発展をみたのであろう。ちなみに経亮は寛政5年に江戸へ下向して定信に謁しており(注28)、訥言もこのとき同行した可能性が高い。このほか、寛政度内裏造営を機としたネットワークの中で制作された可能性が高い訥言の模本には、寛政6年の「佐竹本三十六歌仙絵巻」模本と、冷泉為恭が19歳のとき父親に願って手に入れ、喜びのあまり常に持ち歩いたという逸話で知られる「伴大納言絵巻」模本三巻がある。「伴大納言絵巻」は内裏造営の資料として酒井家から宮― 354 ―

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