中へ召され、天覧の上、模写して寛政8年に戻されたとされる(注29)から、訥言が模写できるのはこのときをおいて他にはない。なお、定信と訥言の関係は、その後も断続的に続いたとみられ、東京国立博物館蔵の平等院鳳凰堂扉絵の原寸模本は、箱書に「文化年中奥州白川城主松平越中守殿依御所望 画師田中訥言写之」とあり、訥言が寛政5年から十数年たった文化年間(1804〜18)にも定信の命に応じていたことがわかる。おわりに「復古」すなわち古典復興の風潮は、十八世紀の半ばすぎにはその萌芽がうかがえ、国学の発展や攘夷の思潮を背景に幕末期にかけて大きな潮流となっていく。画壇においても「復古大和絵派」に限らず、江戸狩野派や江戸琳派など諸派にも「復古」的要素が認められることは、先学の研究に指摘されるところである(注30)。寛政度内裏造営を機とした定信や貞幹といった関西・関東の好古家たちの動向はその第一次ピークともいえる盛り上がりをみせたが、その濃密ともいえる人的交流のなかで、訥言が古画の模写を行ったことは特筆される。訥言の古画研究の根幹である模写は、これまで画家の修練と画嚢を豊かにするための行為と、画家側の側面から捉えられがちであった。しかし、名だたる平安・鎌倉の古画の原本の多くは、公家や大名、社寺の宝庫に秘蔵されており、発注者による援助や諸手続きを少なからず要する点に着目すれば、模写は政治的・社会的要素を多分に含んだ文化的営為であったといえる。少なくとも訥言の二十代においては、当時、定信や貞幹ら第一線をいく好古家たちの需めに応じて多くの古画の模写が行われていたことを本稿で確認した。こうした経験が訥言の画風形成に役立ったことはいうまでもないが、その成果である古画の模本が為恭ら後進の画家に与えた影響も大きく、ここに「復古大和絵派」の源流をみることもできよう。但し、一口に「復古」といっても画家の場合、発注者側の意向が反映されることも多く、必ずしも画家の発意によるとは限らない。訥言の後半生における多彩な画風展開にみられるように、訥言が「復古」一辺倒ではなかったことは明らかで、模本制作のみならず、有職故実等の知識が不可欠な「復古大和絵」的な画題の創作にも、いわゆる好古家たちの関与が少なからずあったと考えられる。定信や貞幹・経亮のほか、訥言と交流のあった伴蒿蹊や頼山陽など同時代の国学者・歴史家等の動向や思想も視野に入れ、その作画背景を探究していくことを今後の課題としたい。― 355 ―
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