鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
371/625

研 究 者:下関市立美術館 学芸員  関 根 佳 織はじめに狩野芳崖(1828−1888)は、近代日本画の父または先駆者として近代日本画黎明期における重要な人物の一人と目されている。しかし、絵師として第一線で活躍した時期は晩年の5年間ほどのことで、それまでは一地方の御用絵師でしかなかった。さてこの輝かしい栄光は、アーネスト・F・フェノロサ(1853−1908)との出会いから始まるが、これまで、なぜ芳崖がフェノロサに選ばれたのかという点について、芳崖の画力の観点からは、あまり議論されてこなかったように思える。フェノロサに見いだされるに至るまでの芳崖の独自の近代化については、まだまだ議論を深める余地があるといえよう。芳崖の作品や事績を分析して整理することは、近代日本画の黎明期をより客観的に明らかにすることにつながると考える。また今回の研究範囲においては、フェノロサとの出会いをして近代日本画の父というポストを獲得した芳崖であったが、それが芳崖でしかなりえなかったのか、ほかの絵師でも同じ結果を生んでいたのか、という点を考える糸口にもなるであろう。本研究では、フェノロサとの出会いのきっかけとなる芳崖自身の「近代化」の萌芽をその作品からたどるに際して、芳崖が島津公爵家に雇われていたという事実に着目する。報告者は、島津家に雇われていた時期に、芳崖が晩年につながる要素を様々に吸収し、独自に自身の画風を発展させていったと考えており、芳崖の晩年の作品を考察するにおいて重要な時期であると考える。芳崖が島津家に雇われていた時期から最晩年に至るまでの作品を整理し分析することで、フェノロサと出会った要素を考察したい。これによって芳崖についての新たな視点を獲得するほか、近代日本画の黎明期を再考する一助としたい。1.フェノロサの求めた日本美術の実践者「フヘネロサ氏の本邦絵画に接せしは、狂斎永濯等の画を見しを以て始めとす。」(注1) これは狩野友信(1843−1912)の回想を一記者が記述したものである。河鍋暁斎や小林永濯は、いずれも狩野派の基礎を学び、独自のスタイルを確立した絵師たちで、今日いずれも奇抜な画風で知られている。― 360 ― 狩野芳崖の画風変遷について─明治10年代を中心に─

元のページ  ../index.html#371

このブックを見る