鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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友信は奥絵師の一家、浜町狩野家の当主である。東京大学予備門で同じく教鞭をとっていた友信とフェノロサは、交友をもつようになり、フェノロサは友信を通して狩野派を知り、狩野派を通して日本美術への造詣を深めたといえる。明治15年には、内国絵画共進会において、フェノロサは審査員を務めるまでになっている。そしてそのときに芳崖の作品と出合い、それから芳崖が没するまでの5年余り活動を共にする。さて、芳崖とフェノロサが直接的にかかわった鑑画会とフェノロサとの関係は、佐藤道信氏によると、「鑑画会が目指した日本画は、伝統を前面に押し出しながら、西洋絵画的な諸要素を積極的に導入したものだった」(佐藤、205頁)(注2)とし、明治10年代後半、欧米(ジャポニスムの隆盛)が日本(伝統的な美術工芸品の輸出)と直結し、日本において輸出を目的とした伝統美術の振興と復興の政策がみられるという結果になった、と分析されている(同、206頁)。佐藤氏が述べるとおり、伊川院の日記などでその熱心な古画学習が知られているが、木挽町狩野家は狩野緒家の中でも進取性に富む家系で、こうした風潮や下地を持つ絵師たちは、フェノロサの考える新日本画の創造を手がけるのに大変好都合であった(同、202、205頁)。以上に見たように、フェノロサが直観的感性によって目にとまった絵師は河鍋暁斎や小林永濯であり、彼らに共通することは、奇抜な、腕の立つ絵師であること、その素養として狩野派の基礎があることなどがあげられよう。このような共通点をもつ当該絵師で他に考えられるのは、狩野芳崖ということになろうか。しかし芳崖の御用絵師時代の作品は、確かにその技量は考慮すべきところもあろうが、一地方の御用絵師の範囲を超えるものではなく、とりわけ「近代的な」「西洋画の影響を受けた」などという表現とは無縁であったと分析せざるを得ない〔参考図版:図1、2〕。2.島津公爵家雇時代の作品それでは、どうして芳崖はフェノロサの目にとまったのだろうか。明治15年の第一回内国絵画共進会に出品した芳崖の作品がフェノロサとの出会いの契機とされている(注3)。この説も個人としてはもう少し熟考する余地があると思われる。というのも、友信と芳崖は木挽町狩野家で同門であり、フェノロサが直接芳崖を「発見」せずとも、友信を介して知り合う可能性が十分に考えられる位置にいるからである。実際に以下に取り上げる《梅潜寿老人図》は蜂須賀公爵家旧蔵の伝雪舟筆の芳崖の模写であるが、明治13年にフェノロサにしたがって、この伝雪舟《梅潜寿老人図》を友信が模写していることが知られている(注4)。芳崖の模写は島津公爵家の旧蔵品であり、― 361 ―

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