鹿島美術研究 年報第30号別冊(2013)
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明治15年頃までに描かれたと考えられる作品である〔図8〕。1)芳崖と島津公爵家芳崖は、明治10年に一家で上京し、輸出用の工芸品の下図を描いて生計を立てていたという。その後、橋本雅邦の紹介で、島津公爵家につかえるようになる。島津家は、帝室に献上する犬追物の記録をとる絵師を探していた。この話はもともと木挽町狩野家当主の勝川院に来た話であったが、病気のため雅邦に譲ったものであった。そして雅邦は、芳崖の困窮具合を案じ、この仕事を芳崖に譲ったといわれている(注5)。ともあれ、明治12年頃に島津家に雇われ、明治維新後はじめて、絵師としての生業で生計をたてられるようになったのである。島津公爵家時代の芳崖の様子は、岡倉秋水(注6)や瀧精一(注7)により紹介されているが、瀧氏が語るように、木村探元の影響を色濃く受けているとは言い難いように思える(注8)。誤解のないように言い換えるならば、探元を含んだ古画の学習を、島津公爵家に雇われていた時代に熱心に行ったのではないか。実際、中国の夏珪や馬遠を倣ったと明記した芳崖の作品が、島津公爵家旧蔵品の中に見られる〔図3、4〕。すでに影山氏(注9)、岡本氏(注10)によって指摘、分析されているとおり、このような古画学習は幕末以前から見られるもので、とりわけ島津公爵家に雇われたことが契機となったのではないにしろ、瀧氏が既言及論文で述べている通り、島津公爵家に雇われていた期間は、旧大名家に伝わる古画名画に触れる機会を得、また存分に画を描く時間が与えられていた。このような条件があいまって、芳崖が古画学習を熱心に行うことに至ったと推測できる。2)島津公爵家時代の作品島津公爵家は昭和3年と翌4年に東京美術倶楽部より蔵品の売り立てを行っている。それまでに刊行された遺墨集掲載作品や、その売立目録(昭和3年)掲載作品により、島津公爵家旧蔵芳崖作品をいくつか見ることができる(注11)。昭和3年の島津公爵家売立目録には、16点の作品が掲載されている。このほか遺墨集にのみ掲載されている作品を合わせると、少なくとも約20点の図が確認できる〔表1〕。このほか、岡倉秋水が記述しているように、島津公爵が仕えているもの、知人らへの贈り物として芳崖の作品を使用していたというし、この約3年の間で多くの作品が制作されたことは想像に難くない。芳崖の人生の中で、待遇にも恵まれ自身の創意に忠実な、充実した作画活動がなされた時期であるといえるだろう。本報告では図― 362 ―

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