《鍾馗》、《蘆鴈》、《猿猴》の8点を出品した(注14)。岡倉天心は、このときの世評が「意趣奇致を以て大に天下の笑を受け、筆墨の爽快なるに拘らず竟に賞を得ず」であったと回顧している(岡倉、23頁)(注15)。芳崖はこの内国絵画共進会で賞を得ることはできなかったが、翌年のパリ日本美術縦覧展覧会には《観音》(フリーア美術館蔵)ともう一点を出陳している。ひとえにフェノロサらの強い働きかけがその陰にあったと推測される。パリにおける展覧会で、芳崖の2作品はビング氏のもとへ買われていった。フェノロサは明治19年にこの作品を買い戻したという。その後明治35年にこの作品ほか数点をフリーアに譲渡するのだが、その時の手紙によると、現在《観音》と呼ばれている作品は、ビング氏によって《人間の創造》と名付けられていたという。そしてフェノロサは「私に影響される以前に描いた人物画の遺品中最高の傑作」だと続けている。また同文書でフェノロサは《悲母観音》(東京藝術大学美術館蔵)は、《観音》の改作だとも述べている(注16)。この点について、石田智子氏は《観音》(明治16年)と《悲母観音》(明治21年)を比較し、その様式の変化を分析している。同氏によると、《観音》の方が、《悲母観音》よりも岩の重なり、墨の濃淡による遠近感がより強調されているという。また《仁王捉鬼図》(東京国立近代美術館)や《江流百里図》(ボストン美術館)においても、《悲母観音》同様、色や線は作品全体を通して同じ調子で扱われているとする(注17)。さて、この《布袋》〔図21〕が、『芳崖先生遺墨帖』及び『狩野芳崖遺墨大観(坤)』に掲載されているが、この遺墨集2冊いずれにも、「この図は雪舟の唐子遊びによりて立案し、明治十五年始めて我国に開かれたる絵画共進会に出品せしものなり。時評は頗る冷酷を極め、児童の写実的なるところ反て奇に走れりとて顧みる者なかりしが、唯一人橋本雅邦翁のみは大に活気の満ちたるを称し、其賞に與らざるを怪しみたりしと云ふ。当時に於ける先生苦心の跡は躍如として紙上に存ずるを見るべし。」との解説が付されている(注18)。『芳崖先生遺墨帖』は明治44年の刊行で、その当時鹿児島の平田勝彦氏の所蔵であった。『狩野芳崖遺墨大観』(大正11年)においては、三重県の中村近之進氏にかわっている。現在は所在不明である。《布袋》は、唐子を伴った布袋図である。布袋は顔を含め前身に毛が生え、四肢は短い。満面の笑みを浮かべた奇怪な顔と、でっぷりとした腹部が強調されている。判別できる範囲で7人の唐子が布袋の袋をひっぱったり、中に入ったり、後ろから袋にのぼろうとしたりなどしながら布袋のまわりで遊んでいる。妙に細く垂れ下った乳房をつまむ唐子も描かれている。左下に「狩野芳崖」と款記があり、その下には白文方印の「雅通之印」が押されている。この款記は、住友男爵家蔵品で現在泉屋博古館蔵― 364 ―
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